豊後の茸作、三平がみた匹見の山々〜#1

 山を移動する職能集団の足跡を追いかけている。ここ何年か。彼らの目に、山は、森は、谷は、どう映っていたのだろう。何を食べ、どこに住み、どんな寝床で眠りにつき、目覚めたときに耳にするのはどんな音や声だったのだろう。
 説話文学、芸能など、主として文字に残されたものを「よむ」ことからのアプローチ。またそれらを含めた文献史学から確たる事実を「ひろう」ことをもって足場をつくっていくアプローチ。その記憶がある翁媼から聞取るあるいはその記録を読むアプローチ。どれをとっても心もとない。それぞれ複合するといえばよさそうにみえるのだろうが、どれも中途半端に終わるであろう先が見えてしまう。
 どうすればいいのか?
 旅を範とすればよいのだろう。地図はあるが、優先する現実はつねに目の前にある。道しるべは頼りになるが、ないところであきらめるのではなく、そこで手に入るものや既知のことなどを、自らが総合判断して、先へ進む。これから書き記す一連のものは、日記とも備忘ともとれるようなそんな記録であり、ひとつの旅なのだ。続きを読む →

日原の茸作、横道の山

今日は2020年の9月7日。大型の台風が接近することが予報され、学校や一部の官公庁が臨時に休日となるような日だった。家の外を整理し、この夏つくったばかりの庭木に支柱をたててもらったりして迎えた日だったが、幸いにも大きな風雨に見舞われることなく家も庭も無事であった。時折強風にガタガタと音がする以外は穏やかといってもいい日和ではあったが、不測に備えているため、どことなく落ち着かず、書類の整理やたまった経理を片付けていたりした。
 そんな中で、昨日来、茸師三平のことを調べていた。手元の資料では行き詰まり、新たに見るべき資料をあげるのと、匹見・日原方面への取材計画を練りながら、大庭良美さんの『石見日原聞書』を読み直していた。調べごとの備忘としてここに記しておく。

2年前の2018年8月に、宮本常一『山と日本人』を紐解きながら、巨木が眠る深山の木々を「切れるわけがない」と、おそらくはふたつの意味で口にしていた日原や吉賀の地の人らの声を思い出したのだ。(本の記録〜2018年8月)。 直接に耳にしたわけではない。祖父やその父たちが言っていたその語りを思いとともに口にすることができた人たち数人が「あぁそうだ」「そう言っていた」とうなずきあうその場に私も居合わせていたに過ぎない。益田での「森聞き」上映会(2012年1月)でのことだ。つい1年前のことのように思い出せる。8年ごしの宿題なのかもしれない。

さて、以下に「石見日原聞書」から「きのこ山師」の項をひきながら、注釈を加えていきたい。随時加筆するものとして。

◆きのこ山師より
 私は大分県の豊後のもので、明治九年生まれ、今年八七になります。

 滝元の薬師寺惣吉さんの語りである。豊後の茸師三平は享和3年に生まれ、嘉永5年に没しているから、その曾孫くらいの世代だろうか。母の話がこれに続けて出てくるのだが、そうしたことが存外に重要だと思われるのだ。

私はナバツクリで、島根県へはじめて来たのは十八の年でありました。柿木の椛谷(かばたん)のしもの地蔵さんのおんなはる溢(えき)で、そこは山奥で人をあんまり見たことがないから、子どもがナバツクリを見て、キノコヤマシが人間を見たようなチンコを出して小便しとったというた。

 溢(えき)は、小さな谷を意味するこの地方の方言である。言葉に込められたものが私にはまだわからないが、注意して見ていきたい。えきは妻にきいてもわからないとのこと。意味だけではない感情のようなものがこうした語句にはついているものだ。それを感じてみたい(知りたい)。※1
 薬師寺惣吉さん(以下、惣吉と記載する)が島根に来たのは明治27年か。まだ江戸時代から続く村のあり方が残っている時代である。そのなかでも茸師という存在の目新しさを物語ってもいる。惣吉は椛谷で数年を過ごした後、日原へ入っていくのだが、当時、ほかにもたくさんの茸師が豊後から入ってきたようだ。
 別項の「椎茸(なば)」にはこうある。

 日露戦争よりも前、豊後からナバ作りがじょうに来よりました。あっちい、こっちい、広い山を買うてナバを作り込んで、山に小屋掛けをしておりました。冬は山番だけが残って、時期になると皆やって来ました。ナバは四尺に五尺くらいな箱に詰めて送りよりました。中にはここに落ち着いた人もおります。(横道 安見藤太郎83歳・昭35,3録)

 日露戦争は明治37〜38年だが、明治30年を過ぎたあたりから5年くらいがそのピークだったのではないか。惣吉はその中でも先駆的な位置にいたのではないかと推測する。このあたり、源兵衛翁顕彰事業発起人会編「大分の茸山師」で確かめてみたい。

 宮本常一が『山と日本人』で語っていた日原の奥のこと(本の記録〜2018年8月)だが、『石見日原聞書』のなかで、木こりが山で木を切るとき、その儀礼について語られているところを確かめることはできなかった。その木こりが岐阜からきていたということは、いくつか重なるものもある。
 たとえば「官林伐採」の項で、横道の吉松吉十さんがこう語っている。時代は明治35年に道路が横道につき、線路が41年〜42年についたその時代の話としてである。

 木挽きは主に岐阜の者が来てやり、木馬道は土佐の者がつけて出しをやりました。多い時には伐りと出しで三〇〇人くらいおりました。

 吉十さんは、道路がつく前、直営の伐採がはじまる前にも木だしがあったことを少しふれている。宮本が残している、日原の人はだれも伐ろうとしなかった木が切られていくその発端としての岐阜からきた木こりの伐採は、その頃の話になるのだろうか。
 同じく「官林伐採」の項で、下横道の大谷吉三郎さんは、よそものが大半であったことをこう語っている。

 山仕事をする者は何百人とおる、これに使うものはすべてトロであげました。仕事しは土佐から四国、広島県の山県郡の方の、よその者が主でありました。よそもんは六〇銭、七〇銭の仕事はせん。木出しは木馬でドバまで一日に一〇石も一五石も出す。木馬はあぶない仕事で年に二、三人は死にました。その頃は横道は仕事しがじょうに入って、祭りにはよそ者が喧嘩をする。年寄りなどは恐しうて行けんような有様でありました。

 よそものがたくさん山にやってくるのは、茸師もそうであったが、明治後期からはじまるこうした数百人規模のものは後にも先にもないものだろう。
 タタラも多いところでは百人をこえてはいただろうが、三百人ほどの大きなところが石見にあっただろうか。どうだろう。茸師集団も数十人くらいであったことが伺える。
 古くは小集団としての木地師、そして近世からのタタラ、茸師、近代の大規模伐採(なんと呼んだらいいのか)、これらに共通するものを意識しながら読み込みを進めていく。
 まずは、移動する集団であること、樹木の豊富な深山に入るものであること、のふたつ。

 移動性、そして樹木の生い茂る深山、ふたつともが近世すなわち室町後期から江戸時代にかけて失われ続けていったものであることをも確かめながら。すると、鹿足郡で最大の深山が横道にひろがっていたことがみえてくると思う。
 豊後の茸師、その中国地方への先駆者として津久見の人たちがあげるふたり、三平と徳蔵。三平は広見河内で、そして徳蔵は横道で茸山をはじめた。江戸時代も後期に入ると、ほとんどの山は草山になっている。江戸中期に描かれたと推されている石見国図をみてもはっきりしている。
 日原聞書を読み直していて、横道の南の深山(と思っていた)、安蔵寺山も火を放たれ、草山となっていたことを伺わせる聞書があり、驚いたのだった。

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(つづく)

※1「えき」その1…小学館『日本国語大辞典』には方言として3項ある。
1)中央の縦谷から左右に派生した小谷。支谷。《えき》島根県、広島県山県郡
2)谷。谷間。《えき》島根県、広島県、山口県阿武郡 《えきなか》島根県鹿足郡
3)へんぴな所。《えき》島根県
 『石見日原聞書』を読んでいて、「えき」という言葉を使うときには、自分がいる・いた・住んでいる場所を指すときに出るのではないか。「へんぴなところに住んでいて」というような。卑下や謙遜と似ているが違う何か。含み、深みのある言葉だと思うのだ。鹿足郡で用例のある「えきなか」という言葉をたどっていけば、もうすこしわかるかもしれない。2020/10/26
 
※1「えき」その2…篠原徹は、昭和48年(1973)「Ethnobotanyから見た山村生活」に、岡山県湯原村粟谷における植物名が、その利用(分類と伝承)と深く結びついてきたことを述べたあとで、山の地形名も区分もそうであると指摘しその具体をあげている。そのなかに谷について、サコとタニは水が常時流れている場かそうでないかという区分を示している。ほかの地形もあわせていくつかを拾ってみると、サコがタニの上部平坦地であるのに対し、エキはタニの下部平坦地であって常時水の流れていないところではないのかと、そう考えて今後見ていくとよいのではと思い追記する。
《ミヤマ(ブナ林を主とする落葉広葉樹林地)・タカツンゴ(山の頂上付近)・ソネ(尾根)・タワ(山の鞍部)・ソウリ(もと焼畑地帯で今は草刈場)・ズリ(崖など土壌が露出したところ)・シバヤマ(シバを採る山)・タニ(水の常時流れる谷)・サコ(水の常時流れていない谷の上部の平坦地)・ナル(山の斜面の平坦部)・ヒラ(山腹)・シロ(茸の生えそうな場所)・ホキ(渓流岸壁)・ウオキリ(魚が上れないような場所)・ジル(山の中の湿地)・サワ(谷の源頭部)・セト(谷で両側の山がせまって最も細くなった部分)・ハラ(原野)・ナメラ(谷で岸壁が露出して掘れないところ)・クボ(耕地)》2020/10/24

ヘミツルアズキの備忘録

一昨日あたりから、ヘミツルアズキを収穫しはじめている。熟したものから順次。天候次第だが、9月半ばくらいまでは続くと思う。気温が下がり秋の長雨にさらされると、鞘が腐るようになり虫の食われ方もひどくなり終わりを迎える。若い鞘を加熱して食すのであれば、10月初旬くらいまでは結実を続けるので、とれなくはなかったと思う。
庄内の山地で焼畑耕作の最終年に植えるのだと聞き、わけていただいた種子から継いできているものだ。ヘミとはfoolishの方言だと捉えていたが、違うようだ。「ヘミ」は蛇ともとれるが、ヤブデマリの和名としての「ヘミ」からきているのかもしれない。
もとはといえば、ほうっておいても、何もしなくても、すなわち頭をつかわなくてもできてしまうツルアズキという意味だと思いこんでいた。出雲地方でダラマメとかバカマメと呼ばれるエンドウ豆があり、そちらにひきずられていたのだ。それらは、たくさんできる、あきれたようにとれるという意味を含んでいる。そこには「感心」「驚き」をあらわすような、尋常ならざるもの(foolishがそうであるように)に向かったときの感情が入っているようだ。

ヘミツルアズキはそれらとは違う。なぜにヘミであったか。
・方言としての「ヘミ」をあたりなおす
・ヤブデマリがヘミと呼ばれた、そのヘミとは
・蛇をヘミとするときの用例をあたる
これら語義と同時に、ヘミツルアズキ、その特徴についてより知る必要がある。

ツルアズキとは称せられているが、マメの形状はアズキではなくササゲであり、植物学的分類はハタササゲ(Vigna unguiculata (L.) Walpers cv-gr. Biflora E. Westphal)である。ヤッコササゲともいう。ルーツはアフリカでありササゲの変種であったか。そのあたり記憶も曖昧ゆえ、訂正のための叩き台とする意図もあって、いまわかるところで備忘を録しつつ、追記を試みたい。

小学館の日本大百科全書から星川清親,2019の解説には、その由来についてこうある。

《栽培されているササゲ類中ではもっとも野生的なものとされ、ワイルド・カウピーwild cowpeaの名もある。原産地はアフリカで、タンガニーカ、キリマンジャロ山麓から、標高2000メートル地帯にまで野生種がある。中央アフリカで古代に栽培化され、いまは世界各地に伝播している。日本へは、中国から9世紀までには伝来していた》

野性的とされる理由はいくつかあるだろうが、ヘミツルアズキの種子をお譲りいただいたE先生が栽培者から聞いた話によると、(夏の)雑草に負けないということ。蔓が他の草に覆いかぶさるようにしてのびていくのだという。しかし、その特徴はハタササゲ本来の特徴ではなさそうだ。先の星川清親,2019には、《つるはほとんど伸びず》とある。ササゲ属(大角豆、白角豆)の品種は160ほどもあるようだが、鞘が短いものには蔓なしが多いようだ。10センチ程度のものは蔓なし矮性。10〜30センチには蔓なしと蔓ありと。すると、このハタササゲは品種群のなかでは境界的なものだと仮定できる。

農業生物資源ジーンバンクの「ハタササゲ」では、その起源についてこう記述。

ハタササゲ(Vigna unguiculata cultigroup Biflora)は,アフリカに起源し東南アジアに広がったササゲ (cultigroup Unguiculata)から,インドにおいて作り上げられた品種群であると考えられている (Ng,N.Q. and R.Marechal. 1985. Cowpea taxonomy, origin and germ plasm. In “Cowpea Research, Production and Utilization” eds.S.R.Singh and K.O.Rachie. pp.11-21. John Wiley & Sons Ltd.)。

同じくジーンバンクのそれより、分類と特徴について、ひいておく。

分類
ハタササゲはササゲ属(Vigna)ササゲ亜属(Vigna)に属する一年生のマメ科作物である。Verdcourt (1970) は,栽培種のササゲ類( V.unguiculata )を3つの亜種, subsp. unguiculata,,subsp. sesquipedalis , subsp. cylindlicaに分類した。その後,Marechal et al. (1978)は,Verdcourtが提案した3つの亜種は分類学上の単位として分けるほどの違いはなく,品種群として分類することを提案した。
彼らが提唱した栽培種ササゲ類の4つの品種群は,品種群 Unguiculata,品種群 Sesquipedalis,品種群 Bifloraおよび品種群 Textilis である。品種群 Unguiculataはアフリカで栽培化されたいわゆるササゲ,品種群 Sesquipedalisは東南アジアを中心に裁培され長い莢を野菜として利用するジュウロクササゲ,品種群 BifloraはVerdcourtの亜種cylindlicaにあたり小粒で莢の短いハタササゲ,品種群 Textilisは長い花梗から繊維をとるために北アフリカに裁培されていた品種群である。2n=22。
特徴
ハタササゲの葉はやや光沢があり,花は紫または白である。ハタササゲの花はササゲの花より小さい。
種子はササゲの種子より小さい。種子色は黒,褐,白赤など多様。莢長は7-13cmで他の品種群より短く上向きに着く。
染色体数 2n=22。

ヘミツルアズキ(ハタササゲ)については、品種群Bifloraに該当し、「小粒で鞘が短い」「花が紫または白」「種子はササゲより小さい」「莢長は7〜13cmで他の品種群より短く上向きにつく」というあたりを特徴としてあげている。このなかでは蔓のありなし、その長さについては記載がない。ほかをあたってみる必要がある。

・蔓の特徴について他のハタササゲではどうなのか
・ササゲのなかではどうなのか
栽培例など、まずは写真と資料で確かめてみるべき。

 さて、今年の栽培履歴をみてみよう。
播種時期が不詳だが、記録から
つるはほとんど伸びず、3小葉の葉の付けねに花序がつき、2あるいは3個の莢(さや)が物を捧(ささ)げる手のように、上向きにつく。類推するに、山畑には6月25日前後、庭のほうが同じか少しあとだったろう。以下数枚の写真はすべて山畑である。

◆山畑のヘミツルアズキ

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・7月11日の山畑。発芽とその後は順調だった。

0802・8月2日。蔓をのばしはじめる。

0809・8月9日。成長が加速。

0816P1310957・8月16日。開花。すでに結実しているものも多いので、初開花は5〜6日は前だろうか。

0823_P1320095・8月23日。実がしっかり太ってきた。この7日後あたりから収穫しはじめ。

IMGP8645・8月31日。収穫後3日のちに鞘から取り出した。

野老と道々のもの

P1310622 おそらく鬼野老(オニドコロ)だと思う。一昨日やっと見つけた。探しているときには見つからず、忘れた頃に、こんなところにあったのかと驚くのはいつものこと。そして、7月下旬の今頃が目立つということでもあろう。花をつけるのもこれからだ。
トコロを食べる会として、蔓延って困っているというところからは根こそぎ持ち去ることを申し出るべく、会の趣意を記してみようと思う。
鬼野老と書いてオニドコロ。令和2年現在、ウェブで散見するに、数年前の記事では青森、山形では、道の駅でも売られているとか。山陰ではまず見ないし、聞くこともない。出雲地方、石見地方での呼称については不明。出雲国産物帳を紐解いてもそれらしい記載はない。
トコロと名のつくものはいくつかある。
・アマドコロ(甘野老)
・ヤマアマドコロ(山甘野老)
・ウチワドコロ(団扇野老)
・カエデドコロ(楓野老)
・キクバドコロ(菊葉野老)
・ヒメドコロ(姫野老)
・タチドコロ(立野老)
が、通常、トコロといえば、オニドコロ(鬼野老)、すなわちヤマノイモ科のDioscorea tokoro Makinoをさす。いつのころからなのか。仮に江戸時代中期以降と見立て、その嚆矢を元禄時代とみてみよう。『本朝食艦』を著した人見必大とて、トコロという呼称の由来については不詳としている。漢名は山萆薢、生薬名は「萆薢(ヒカイ)」というのは誤用のようだが、よくあることで、気をつけたい。また、必大は野老の栽培も多いということにふれ、栽培したものの毒性についてふれている。言及こそないものの、山野の自生したものが用いやすいということか。さらに、栽培は食用ではなく、生薬にするためのものであったであろうと。さらに進めて、元禄の頃よりトコロを日常に食することが減っていったのだろうと、今は見ておこう。元禄の『本朝食艦』から五十年ほど時代をくだって弘化の『重訂本草綱目啓蒙』になると「味ニガク食フベカラズ」と記され、干して春盤の具(正月の供物)とすることや奥州、阿州では上巳の節句に用いるのだ等、文字の知識と儀礼に残るだけのものとなっていく。
僅かな文を手がかりに、時代を室町、鎌倉、平安にまで遡れば、いま少し違う風景も見えてくるようで、そうしたことからの臆見に過ぎないが、トコロを食べてみようという向きにはそれでも有用なのだ。
蛇足ながらの付言をふたつ。
日常の食とはいっても、嗜好食である(あった)ことは、野本寛一が『栃と餅』2005,岩波書店で記していることからも推し量れる。野本氏が口にしたその食味とあわせて平成15年3月2日に新潟県岩船郡山北町山熊田での出来事をその書からひいておこう。

《こうして仲間が集って手仕事をする時や、家族がイロリやストーブの回りに集まって団欒する時、煮あげて笊に盛ってあるトコロの皮を小刀や果物ナイフでむいて楽しみながら食べるのだという。ーーキヨ子さん(大正12年生まれ)は包丁で手際よく皮をむき、食べてみろと勧めてくれた。
色は薄い飴色に鬱金色を混ぜたような色である。口もとへ運んだ瞬間、微かな芳香が鼻孔を刺激した。口に入れて噛む。ねっちりとした歯応えがあってホロ苦い。苦いけれども口が涼しい。歯応え、舌ざわりは山芋を輪切りにして煮たものに近いがそれよりも弾力性がある。爽やかな香気がある。苦いが抵抗感は湧いてこない。》

山北町(村上市)は山形県鶴岡市と接し、むしろ山形であると、町の方から聞いたことがある。山北町の焼畑でつくられる赤カブは鶴岡市温海の温海カブと名称こそ違え、ものは同じであるようだ。そうしたこともこの話の糸のひとつ。食べてみるといえば、島根県内で毎年、口にしているところもある。美保神社の青柴垣神事。供物の中でも野老は重要なもので、當屋が供物であるトコロいもを海中で洗う「野老洗い」は欠かせない儀礼となっている。今現在どう調理されているか、野老はどこから取ってくるのか等、確かめるべきことも多い。山形地方から贖っているということを論文で見た記憶があるがすぐに取り出せないので勘違いかもしれない。この糸は、山陰は元来白カブを地カブとする地域なのだが、津田蕪をはじめ、米子蕪、飯島蕪と赤カブが沿岸地域に存在する(してきた)。その北の縁と、里芋・生姜・茗荷とつながる南の縁をつなげることに、意味はある。

もうひとつは、舞狂言の「野老」である。
幽霊となってさまよう鬼野老の霊を僧が供養するのだが、野老の精が延々とその身の上を語るところが主話となる。
能楽研究所が蔵しウェブ公開されている「天正狂言本」からその冒頭をひく。画像に朱で示したところ。

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《そもそも山深きところを
鋤鍬にて掘り起こされて、
三途の川にて振り濯がれて、
地獄の釜に投げ入れられて、
くらくらと煮ゆらかしていませるところを
慈悲深き釈尊(杓子) に救い(掬い)あげられ……》

続きも笑いをこらえるところなのだろうが、目をこらすべきは「山深きところ」。野老は山深いところだけにあるわけではない。これは舞狂言がそうであるように、この夢幻のなかで野老を食していたのも、それを供養しているのも、当時のいわゆる農民や僧ではなく網野善彦いうところの「道々のもの」であることを示している。漂泊するもの、だれにもどこにも属することなく、諸芸職工を懐に道の上に生を全うし歴史から消えていったもの。そうしたものの霊こそが慰められている。
野老は道々のものが、楽味とし、滋養としたのだろう。合歓木の花咲く夏の日、鮮やかに静かに葉を茂らせるその姿に夢想した。
さて、どこまでか、たどれるところまでそれを追い、食べてみよう、というのが、トコロを食べる会の趣意である。

令和2年夏の畑

◆6月6日
藪を払った淡竹林からようやく筍がちらほらと。掘り取ったあとがあったので、あの方が来られていたのかもしれない。たぶん1日には出始めていたのだろう。ここは奥のほうの藪を払って、雑木そして杉にからまる蔓の類を除いていく。そして親子でも入れる気持ちのよい森にしていくのだ。

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◆6月7日
山の畑のスペルト小麦。花をつけていた。春先に何者か(狸だろう)に根本のほうまで食われていたので、あきらめていた。先のほうをいたずらのように食われたのならまだしも、けっこうがっつりすべての株がやられていたのだった。春先でもあるし成長点がずいぶん下のほうだったのだろう。実入りが少ないが、これ、菜園畑とくらべるとまだまだ土に穀物を育てる力があるということ。火入れから2作目であること、前作はサツマイモということ、土がもともとよいこと、そうしたことなど、要因と相関を頭に入れておこう。
そうそう。ここの空いたところに大豆でもいいじゃないかと思ったのだけれど、日照がよくないので、きびしいね。

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◆6月14日
†. 消炭づくりとセリ汁
降雨で土はびっしょり。竹の葉も湿っている状態。数日前の降雨までは雨不足による渇水で取水制限が出されたばかりだった。なので、バリバリに竹の材は乾いていたはずで、そこにどの程度雨が浸透しているかによる。暫定の結論を先にいえば、思ったよりも燃えにくかった、ということ。4月に切った竹が多かったことと、切って2年たつような古い竹も多かったこと、などによろう。孟宗竹の山と淡竹の山、2箇所で焼いたのだが、淡竹のほうはさらに燃えにくかった。
燃えにくいと、消炭としてはいまひとつのものとなるのかもしらん。

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セリ汁は、余裕があればつくろうとしたが、余裕はうまれず、ただ、竹筒を切って、下ごしらえくらいまではできたので、いろいろと得るものもあった。次回へ。

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◆6月16日

†. 大豆の播種
種まき用にとっておいた(はずの)白大豆が見当たらない。冷蔵庫に、それ用かどうかは不明のもの80粒弱を発見、小豆とともに。小豆と黒大豆は中旬までには播種したかったが、起こしもできてないし、どうしようか。オリゼ畑はともかく、山畑は大変、な、はず。
→白大豆は6/21、山の畑に。約70粒。
*7月3日追記;山の畑、半分ほど発芽。遅め。

†. タカキビ
今年は多めにまこうと思いながら、できてない。山の菜園畑では、わずかながら蒔いたところにはエノコログサかメヒシバと思しきものが大量に芽吹いていた。見分けにくいが、いくつか発芽はしているようだ。のびはじめたら強いのだが、この小さいときにどうも生き残りにくいのではないか。苗にしておくものをつくっていなかったのが悔やまれる。が、遅くないかもしらんので、今日つくっておこう。
タカキビ×大麦入のご飯を炊いた。八分づきの米1合半とタカキビ×大麦が半合で、タカキビ多め。かなり粘りが出て、かたまってるところをほおばるとまるでもち米。うまいはうまい。5時間程度は水に浸けて、洗い直したものを入れているので、アクはある程度抜けているはずだが、この分量だとほとんど渋みを感じない。

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*6月19日追記:オリゼ畑に蒔いたものが発芽していた。1週間もたっていないはず。苗ポットに播種したのも同日。6月末までに発芽してうまく育てば、種子としては不全なれど食うには食えるものがいくつかできるのではと思う。
†. タマネギ
三日前がほぼ終日の豪雨、二日前の日曜日も時折豪雨となった日だが、すきをみてオリゼ畑にほってあった晩生のタマネギで薹立ちしたものを掘り上げておいた。そいつを昨日、調理してみた。中心部はたしかに多少すかした感じもあるが、ほぼ問題なく食べられる。もともと5センチほどの小さな玉だからさほど感じないだけなのかも。種子からやってみるのなら、畑においてあるものから種どりして9月には播種の予定。山の畑でもできんことはないし、連作できる野菜としてうまくいかしていきたい。
†. モチアワ
古い種子をダメ元で盛大にばらまいたりもしているが、どうやら無理なようだ。半端な量では鳥にぜんぶ食われるし、そこは難しい。ホンリーとの混植が鳥たちの突撃を回避できるかもしれないが、鳥も学習するので、どうだろう。種子がきれたこともあり今年から少々おやすみしよう。
†. 里芋(三刀屋在来)
山畑(菜園畑)の発芽がようやくといったところ。これから挽回できるかどうか。オリゼ畑は順調といえよう。
†. シロヒエ
山の菜園畑に蒔いたのは1回目が5月11日、2回目が6月2日。そして下の写真は1回目の発芽で5月24日。
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◆6月18日
†. スペルト小麦の刈取り
まだ青いのだが、稈は黄化しているものが9割方。夕方から雨の予報だったので、昼過ぎから刈り取るつもりでいた。ところが。朝4時半すぎだろうか、妻が「雨が降り始めたね」と。外をみるとたしかに降っている。慌てて着替えて、畑に出た。小ぶりだ。雨具はいらない。鋸鎌でせっせと切る。徒長気味に背をのばした稈はいつもの年よりやわらかい気がする。実の大きさも小さいのではないか。
つつじの横、庭のものも刈り取った。こちらは昨年よりもずいぶんと立派だ。そういえば、山のものも、食害にもかかわらず実のつきは悪くなかった。

◆6月23日
火入れ

スライドショーには JavaScript が必要です。

◆7月3日
†. アマランサス
昨年春焼き地にばら撒いたものは、大きくなっていないようだ。山畑のものは遅いのかもしれない。オリゼ畑のこぼれ種からのものは大きなものでは腰高くらい。3日前くらいに間引きと移植を行った。早いものではもう蕾部が頭頂から出始めている。

◆7月22日
†. アマランサス
6/23に山で火入れをした後、翌日にばら撒いたアマランサスがいつのまにかこんな状態。遅いのであるが、間引きをし柵をつくり暑い夏が長引けばそこそこ収穫ができそう。どうしたものか。

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◆8月9日
†. 白大豆
ようやくのびてきた。豆は暑くなってからののびしろが大きい。
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†. ヘミツルアズキ
畑ササゲも蔓をぐい〜んとのばしてからみはじめたところ。
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†. 白ヒエ
たいがいどこでも育つものだが、今年はよくない。種子をうまくとって次年度へのつなぎとする。
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