木次に越してきて十年。覚え知ること積み重なるよりまして、知らないことが既知のまわりにひろがっていく。小さな土地がその小ささはそのままに、世界がどんどんひろがっていくようなものか。自分がだんだん小さくなっていくが、それが心地よくもある。
実をつけぬ柿の木が裏の畑にあった。越してきて数年はまったくならず、近年ひとつふたつはなるようになったのだが、とって食べれば食べられなくはないというほどの出来。贔屓目に美味いと言ってはみるものの、人にすすめられるものではなかった。ならぬのなら伐るか。そう決めたのが昨年のこと。心の声を誰が伝えたのか、満を持していたのか、秋には鈴なりに実った。取り切れず、しかも美味い。柿が好きではない妻でさえ、これは美味いといった。方方におすそわけしたが、それでも食べきれないほどであった。小さな一本の甘柿の突然ともいえる変貌。いくつか心当たりはあるものの、その理は不明である。
ことにここ数年、斯様なこと枚挙に暇なし。新たな知見得るごとに、未知更に広がる様には呆れるばかり。然れども。
“nie Wien”―私は「知らない」。
シンボルスカは、この詞を「知っている」に抗する小さくとも強い翼だと言った。年賀にあたってしかと受け止め、自分のものとしていきたい。
あ、また、食べることも忘れずに。
†. サラダには、件の実った柿、焼畑の蕪、GOOD LIFE FARMのセルバチコ。café A. oryzaeのランチに今年もまたあげられれば。
†. nie wienはヴィスウァヴァ・シンボルスカの1966年ノーベル文学賞スピーチより。ノーベル財団のウェブサイトに掲載。沼野充義の邦訳が『終わりと始まり』(未知谷)に収められている。