熊子の古を拾いつつ#地方史誌其の一

熊子(くまご)と、出雲地方で呼ばれてきたアワのことについて、いまだ調べること多いものの、まとめていこうと思う。記録の散逸、記憶の錯誤をおそれる。できるところから少しずつ書き足していく方式をとろうと思う。

あわせて、聞き取りを再開したい。その基礎資料としてつくるものでもあるが、遠い誰かの役にたてればと書き置く。

地方史誌其の一では、島根県内でのそれを中心に集めていく。順序はまた整理するとして、まだ一度も文字に起こしていない(であろう)ものから。基本的な記載法としては、全文を抜書きした後に注釈、解釈をつけていく体裁とする。
熊子(クマゴ、くまご)の表記は段落内で引用文献とあわせ、統一はしない。

■1.羽須美村誌のくまご
『羽須美村誌(下)』昭和63年,羽須美村誌編集委員会

第五項 くまご(こあわ)

麻畑の後作として、「くまご」を栽培した、これは麦と共に米の補給物として重要なものであった。
麻刈りした畑に、ほとんどがバラ蒔きをしていたので、水田の除草や、養蚕の合い間を縫って、手入れをするのだ。手入れといっても主に、間引きと除草である、真夏の太陽のもとでの仕事であり、手間のかかる作業なので、編み笠や、すげ笠、後にはコーモリ傘をさして行った。しかも一番間引き、二番、三番と、三回間引いて丈夫なものを、程よい間隔に残しながら雑草も取ったが、道具とてもなく素手の作業である。
年によっては、「ホージョウ」と言う害虫が大発生して、一日二日で、丹精こめた「くまご」が葉も茎も無惨に喰い荒されて、収穫皆無と言う年すらある。除法もなく、僅かな発生なら、捕獲駆除もしたが、大発生には全くお手あげであった。

一、収穫

一穂一穂を、穂を揃えて両手に一杯になると、根元より引抜いて、茎を適当な長さで切り一把にして、干架に掛けて乾燥する。

二、脱穀

脱穀は、麦と殆ど同じ方法で、打台にたたきつけて穂を落とすのであるが、これも隣同志で手間がえで行うことが多かった。
打ち落とした穂や粒は、蓆の上で、ブラ槌や、槌でたたいて、粒とし「大ドウシ」にかけて、粒に穂や雑物に選別し、雑物や穂は更にブラ槌等でたたいて、トウシに掛ける等数回繰り返し、粒はトウミに掛けて、小さいごみと粒に仕分けして、一応完了であるが、この作業も、大変な、ちりの中の作業で、全身汗とほこりとの闘いであった。反収二石も穫れれば上作である。
この「くまご」も年々減少して昭和十五、六年頃より極度に少なくなり、三十五、六年に至って殆ど姿を消してしまった。
昭和の初期までは、常食として米に混ぜて、ご飯に炊いていた極めて重要な食糧であった。御飯一升について二合ー四合(二割ー四割)を混ぜて食した。炊きたての温かいうちは、黄色で香りもよく、食べ易く味も悪くはなかったが、一旦冷えると、香りもなくボロボロして食べ難いものであったように記憶している。

◆1. 執筆者自身の食味に関する記憶が記されている。注視したいのは、くまごを「こあわ」とカッコづきで見出しにたてていること、そして麻の後作として栽培した旨である。今まで見てきたなかで、「こあわ」とはっきり書いているのはこの羽須美村誌のみ。アワは春蒔きの春アワと夏蒔きの夏アワに大別する分類があるが、羽須美村誌が記すくまごは夏アワである。夏アワであることが明白なものとして、出雲国産物帳の飯石郡絵図注書認指出帳の「八月熊子」がある。
◆2. 飯石郡絵図注書認指出帳の「八月熊子」には、「五月畑に種を蒔、八月熟、八月熊子と名附申候」とある。新暦でいえばおよそ六月中旬に播種、九月中旬に収穫ということだろうか。生育日数は90日ほどと短い(夏アワの生育日数は90〜130日)。また、この文書で注目したいのは熊子の特徴について「粟とほぼ同じだが、芒のないのが熊子だ」と説明していること。「粟同然に御座候え共、いぎ無御座に付、熊子と申候」。「いぎ」は芒のことだろう。
◆3. 上記1,2から羽須美村誌におけるくまごは、次の特徴をもつ。
・夏アワ
・コアワ
・ウルチ種
・脱ぷ後の色は黄色
◆4. 調製道具について……打台は大きな板のようなものであろうが、据え方など詳細は不明。ブラ槌と槌を併用しているところが興味深い。ブラ槌で荒くたたいて、小さくなるにつれて槌にかえていったのではなかろうか。次にひいた赤来町(谷地区)の調製が詳しいので比較するによい。
◆5. くまごを食したのは羽須美村全域であったのか……《昭和十五、六年頃より極度に少なくなり、三十五、六年に至って殆ど姿を消してしまった。》という変化は日本の山村における雑穀食に起こったものとほぼ同様である。もう少し詳細を掘り起こしてみたいものだが、羽須美の場合も、次の赤来(谷地区)の場合でも、手間がえ・てまがいと呼ばれた隣近所の共同作業で脱穀をしていることが、いったい何を物語っているのか、それを読み取ることからだろう。

■2.赤来町史のクマゴ

 『赤来町史』1972,赤来町史編纂委員会 編
第6編 赤来町の民俗〜
クマゴこなし
谷地区では稲のこなしが済んで十一月に入るとクマゴこなしが各部落でてまがいにより行われた。クマゴは粟の一種で米に混ぜて炊いたもので、谷では昭和初期まで常食としていた。米一升にクマゴ一合を、多く混ぜる家では二合〜三合を混ぜて炊いた。なお、クマゴをたくさん作る家では三石〜四石も収穫した。
「今日はうちにクマゴを叩きゃあ思いますのでお願いします。」と田植え組(五、六軒〜七、八軒)へ依頼する。この作業は夕方から夜にかけて行われ、依頼を受けた家から二名ずつぐらいが、それぞれ籾トオシと米トオシを持って集まる。まず稲をおろした跡のハデ(稲架)からクマゴをおろし、臼庭へ運ぶ。次に臼庭へ苫を立て四畳半ぐらいの広さに三方を囲む。その中に餅搗臼を横にして据え、叩き台とする。この臼にクマゴの穂を打ちつけて落とすのである。これをツルオトシという。婦女子が、落ちた穂をコダタキといって槌でまた叩き、しかる後、籾トオシでおろし、次いで米ドオシでおろす。このおろし滓を二人してそれぞれが長さ四尺、直径二寸位の棒を持って向かい合い、再び「ホイサッサ、ホイサッサ」の掛け声で叩く。「座敷の方へ。」「ダヤ(厩)の方へ。」という合図で右へ左へと交互に方向を変えながら叩いて行く。こうしてまたトオシでおろす作業が繰り返されてゆくのがクマゴこなしである。
この作業の日、夕食は先方で食べた。コダタキが終わると、煮〆、ナマス大根などで夕食を食べた。酒は出なかった。また夜の作業はコエ松を焚いてその明りで進められた。

◆1. 谷地区は旧谷村に該当する地区であるが、谷村の消長が比較的短いため、その前身である3つの村をあげておくと理解の助けになる。すなわち、塩谷、井戸谷、畑田の3村である。また谷村は旧邑智郡であることもふまえておくと、谷地区
◆2. この項は農の共同作業について、稲作での事項に追加するように入っているもので、食生活のなかで、再度くまごのことは出てくる。

 同赤来町史より
さて明治から大正にかけての食事の概況を記すと次のようになる。この記録は昭和四十四年の夏、来島地区、赤名地区、谷地区における六十才以上の老婦人が語った若き日の食生活をまとめたものである。
主食といえば、米三分にクマゴ七分のものだった。朝はたいていが茶粥に漬物。昼は飯に漬物。ハシマには飯に漬物。夜も飯に漬物それに煮しめ。そして自家製の味噌でつくった味噌汁があった。味噌汁の中身はそれぞれ時節のものが入れられ、タカナ、ネギ、タケノコ、ナスビ、大根など……(中略)……主食の過半を占めたクマゴはこの昭和の初めまで用い、特に谷地区ではクマゴこなしの共同作業までみられた。

◆1. 該当ページ数など不明ゆえ、要確認。勝部正郊氏の取材執筆である。
◆2. 明治から大正にかけて「主食の過半を占めたクマゴ」とまで言える状況が、谷地区のみならず来島、赤名にもあったということだろうか。ここではクマゴはアワの一種であるが、当地におけるアワはすべてクマゴであったと考えてしまう。それにしてもアワの比率が高いのはなぜかという問が離れない。作業仮説として、水田稲作と同時に取り組みやすかったのではないか。当地は(中国地方全体にいえることだが)山岳畑作地帯ではない。

■3.掛合町誌のクマゴ

『掛合町誌』1984(昭和59),掛合町誌編纂委員会
第5章 近代の掛合地域〜四 村の生活の種々相

2食生活 主食

日に三回の主食は大正のころは米と雑穀との混ぜ合わせが多かった。特に節約して家計を締める家とか、苦しい家計をあれこれと切りまわす家では、たとい農家であっても雑穀を多く混ぜたり、朝晩あるいはどちらか一方を粥ですませたりする家も多く見られた。

大正のころの飯は米が七に対して雑穀三の割合で、大麦・小麦・くまご(くまごに傍点)がまぜられた。このほか甘藷(さつまいも)・大根・りょうぶ(りょうぶに傍点)もまぜて補いとしたが、かつて奥飯石地域に属していた波田地区は、麦・甘藷は栽培が少なかったから、くまご・りょうぶ・大根などが多く混ぜられた。

くまごは昭和の初めごろまでは見かけ、りょうぶは春の若葉を摘み、茹でて灰汁出しをして干し、必要なときに米に混ぜて炊いた。このくまごの割合は米七合に三合、あるいは米八合に二合程度であったが、二合のくまごが混ぜられると、炊き上がった飯はその色で黄色になっていた。

このほか、くず米を粉に挽き、あるいは雑穀の粉で団子汁をつくり、朝晩主食のかわりとした。また、えのこという葛の根を掘り、擦りつぶして澱粉をとり、主食の補いとした。これは飢きんのとき特に大切な食糧となった。だから大正のころまでは混ぜものの入らない白い飯は、正月・祭のときくらいに限られていた。

◆1.  わかりにくいのだが、大正のころの「主食」について、米7:雑穀3 の割合としているのは、雑穀のなかに麦(大麦・小麦)を含めているところが興味深い。

◆2.  出雲地方山間部において、雑穀がまだ山間部では主食の一端をになうほどの存在感があった時代、くまごが赤来にあって掛合にあったのなら、頓原にあってもいいのだが、痕跡を見つけてはいない。

■4.大和村誌のクマゴ

大和村誌 p.638(第三章民俗慣習ー第ニ節食物)
(江戸から明治にかけての食として)主食は米三分、クマゴ(粟)七分で、時によって粟のかわりに麦、甘藷、または大根や菜葉を細目に刻んだものを混ぜて炊いた。

◆1.   大和村(現美郷町)は、農文協の「島根の食事」の中でくまごめしを載せている都賀の在するところである。
◆2.   米との混ぜ飯のなかで、他の地誌と比して、もっともくまご(粟)の割合が多い。この表記の仕方では判別しかねるが、粟=うるち粟=クマゴという使い方であったのかとも思われる。が、しかし、都賀の老人にくまごを尋ねた際、くまごとあわは違うということはその相違点については不確かなものの、異口同音に述べておられた。

熊子(クマゴ)のこと〜その2 – 樟の森の研究室

■5.川本町史のクマゴ(未稿)

資料逸失。出雲市立中央図書館でとりなおす。

■6.飯石郡誌のクマゴ

 『飯石郡誌』飯石郡役所編,大正7年刊の復刊として名著出版より昭和47年刊
p.527(第三章民俗慣習ー第ニ節食物)
(江戸から明治にかけての食として)主食は米三分、クマゴ(粟)七分で、時によって粟のかわりに麦、甘藷、または大根や菜葉を細目に刻んだものを混ぜて炊いた。

〜つづく

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