スフィンクスの謎かけに応えて・補遺

寺子屋あわい堂2024。「言葉と神」の第1回は「スフィンクスの謎かけに応えて」と題して1/26に開催しました。その補遺あるいは異本のようなものです。書き換え・加筆訂正を繰り返します。あしらず。

初版2024年1月29日。

「言葉と神」素描

王の交替

1-1.スフィンクスは神と王を写像変換する。
1-2.スフィンクスによって、人間は神と王を同時にいただくことができる。
1-3.神と王を同時にいただくことことは、国土が形づくられることと同義である。

2-1.神と王はスフィンクスによって結びあう。
2-2.スフィンクスと人は言葉によって結びあう。

3-1.神は王であり、王は神であった。
3-2.王が人であることをのぞんだとき、王の交替と神の退場が起こった。
3-3.神の退場によって、王は人であり、人から王が生まれることになった。
3-4.スフィンクスが姿を消すことで、言葉がひとりで飛び交うようになった。

補遺2-来訪神

来訪神、甑島のトシドン

「検索してみてください」とお伝えした甑島のトシドン。検索しても、会場でお伝えしたようなものは出てこない。5年ほど前にあった動画は削除されていた。こうしたものは広く公開されるものではないのだろう。こちらのリンクは、以前見たものに近い。種子島のトシドンとあるが、甑島から移住した集落に伝わるもの。

サンタクロースの秘密

サンタクロースが神々の仲間であることは、次の3つの機能を有することで説明がつく。

  1. 時をさだめて、人の世界へ訪れる
  2. 礼拝の対象である
  3. 良い子にはプレゼントを与え、悪い子には与えない

そして、サンタクロースを他の神々とわかつもの、他の神々にはなく、サンタクロースだけが有する最大の機能とは何か。
―大人がその実在を信じていない神
サンタクロースはこの特徴によって、大人と子どもを分断する機能を有する。そして、またこの分断こそが可能にする(可能だと信じられる)ことがある。

 

寺子屋あわい堂2024前期〜言葉と神

ご案内。

◉全3回にわたってお送りする「言葉と神」。よむこと、かたること、つながり。各回 、この3つを足がかり、手がかりとして、諸領域を逍遥します。案内は語りを兼ねて、樟舎の面代真樹が相勤めまする。

◉傷ついたり、励まされたり、恋したり、笑ったり…そこには言葉があります。おはよう、ただいま、さようなら……ここにも言葉がいます。生まれてから死ぬまで、言葉はずっとあなたのそばにいるはずですが、それってなんなのでしょう。心、記号、コミュニケーション、情報、論理、どう関係しているのでしょう。

◉「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」。聖書・ヨハネの福音書はこうしてはじまります。聖書に記された「ことば―ロゴス(λόγος )」とは、イエス・キリスト、御言葉と訳されますが、言葉そのものです。キリスト教だけ? いえ、そんなことはありません。それどころか……。
つづく。

巻の一   スフィンクスの謎かけに応えて〜とある谷のmicrostoria試論  →終了。

巻の二  3/15 「語り」の始原へ〜柳田、折口、漱石、ハーン、それぞれの出雲を緒として(仮題)→準備中

巻の三  すきとったほんとうのたべもの~宮沢賢治と民間信仰そして宗教 (仮題)→準備中

令和6年のだくだく

トシがあらたまるという。年取りとも言ったものだが、わかる人も少ない。使うひととなると、もはやいないと言っていい。年取り魚、年取り膳、そんな断片的なもののなかに残っていはいるし、年取り儀礼瓦解後の残存として、畑から出てきた土器破片のようなものとして、復元は試みられてもいる。が、しかし、生きたものではない。遺骨から故人の生き様を思うようなものだ。

もっと近くへ行きたいのだ。トシトリという言葉がまだ息吹をもって生きていた時空へと自分をすべりこませてみたい。いま70代〜80代のお年寄りが、小さい頃におばあさんに聞いた言葉の中にはまだ生きていたようだ。明治の時代である。「◯◯ちゃんも、もうすぐトシを取るんだねえ」。大晦日の寒い日に、抱き寄せられるようにして語られた言葉を、しみじみと思い出す方の言葉をきいた。めでたく、ありがたく、あたたかく、来し方と行く方が交錯する幾ばくかの不安に囲まれたなかにあっての安堵。守られた安堵の空間にいるほのかな喜ばしさ。そんな肌ざわりのある言葉だった。

トシトリとはなんだったのか。いまも諦めきれずに少しずつ手掛かりを集めているから、歳の変わり目に思い出すのである。いまだとて、言葉は失われても何かが生きてはいる。その本質(nature,ピュシス)はそう簡単に死にはしない。

仕事は休みに入り、多くの働く場は1月1日には休みとなる。年越し蕎麦を食べる。餅をついて準備をする。正月飾りを用意する。門松をたてる。親族が生家に集う。除夜の鐘がつかれる。お節料理を用意する。初詣がある。

非日常を迎えるなんとはなしの喜びのようなものはある。が、そのなかにあって、トシトリの本質として私がとらえようとしているもの、「あぁ」と感じられるものはないのだ。それは個。「ひとりひとり」。お餅はそのひとつであった。家庭の食事、間食も含めてふだんは一緒に食べるか、いつ食べるかどれくらいもらえるかは、主婦の裁量であった。お餅だけは違った。もらったものをいつ食べてもよかった。お腹いっぱいに一度に食べてもよいし、ひとつずつ大事に長く食べてもよい。そういう食べ方を可能にする形態である。神にも精霊にも悪霊にだって、それは供された。飼牛にも路傍の神にも。鍬、鎌といった道具にも供えられた。みなが一様に一度にトシをとるものだったが、同時にそれはひとりひとり、ひとつひとつ、でなければならなかった。

いわゆる西洋近代の自我とは異なる「個」として、それは考えられはしない。高取正男を読み直しながら、もういちど辿ってみようと思う。『民俗のこころ』がちくま学芸文庫に入って出された。書店で手にとってみたが、どうもしっくりこない。高値になっていた全集2巻のものか、朝日新聞社刊のものが安くなったら、手に入れようと思う。

さて、1月1日。トシがあらたまって、我が家とともにあるcafe A. oryzaeでは糀づくりがはじまり、はりつめた時を迎えた。A. oryzae、コウジカビ。カビはいまや忌むものとなってしまっているが、かつてはそうでない。年取りをもって迎える糀づくりはその起源へと船を漕ぎ出すことのうようだ。カビの語源は牙=芽であり、宇摩志阿斯訶備比古遅神の修辞である葦牙の如く萌え騰る―なるものにみられるように、見えぬものが見えるものとなって現れることへの驚きと畏怖と喜びへといざなってくれよう。

カビがみごとに米についてくれることを、米の花と書いて糀=こうじとよむ。プロセスを胚胎したその言葉には、そうならぬことへの畏れとなることへの願いと、なった安堵と喜びとがある。新年にあたって、すべてめでたきことと思う。

cafe A. oryzaeと同じく我が家の一角たる樟舎では、「だくだく」という落語にあやかり、本年も令和元年から5年のつもり。いっそ嘉永5年でもよい。時を翔ける凡夫になったつもり。こちらもまためでたいことで。

本居宣長と森

■1月6日、小寒の日の午後、杵築の大社に詣でる。穏やかな空気が心地よかった。無の空間、神の空間が、かすかではあれ、たしかにそこにあるように思えた。
杵築の森を確かめる。何年か前に歴博の展示でみた佐草家の文書だったかに杵築森とあった文字の記憶だけが蘇る。ウラジロガシのどんぐりをひろい、もうひとつ、出雲森をちらりと確かめながら、モリとフロとツカをめぐる想念※を、清少納言・枕草子の「森は〜」にからめてみる。はたまた、北島國造館の遷宮なった稲荷社の脇にあった小さな稲荷の置物群についていくつか思い当たることを徒然に想う……。荒神、天穂日、稲荷の御三社は、「モリ」からいでなったものと考えてみよう。

■そして、この日、森から10分ほども歩いた神門通りの舎で、子安宣邦先生の再婚を知る。
床の間には、舞楽陵王の画に、君が代は千き代に八千代に、を冠した掛軸が掛かっていた。
驚いて、著名な方ですよ、としかこたえられず、また知る人ぞ知るという言い方も不自然だ。
妻から、Facebookにものっているよと、お相手のことなど教えてもらう。wikiには(まだ)記載はないとのこと。

■facebookを開いて、さらに驚く。
https://bit.ly/3Gm163f
《宣長の国学論から「絶対的保守主義としての天皇制」を導き出しながら、これを近代国体論のなかでどう位置づけて考えるか、あれを読み、これを読みしながら迷い続けてきたが、やっと解く道筋を見出したようだ。》
昨年11月の投稿である。89歳にして、である。いや、再婚ではなく。
来る1月28日には「昭和思想史研究会・思想史講座「絶対的 保守主義としての天皇制」第4回が、肥後細川庭園内の松聲閣で開講されるという。

■子安宣邦の名を書棚の奥方から引き出してみる。岩波新書の『本居宣長』(現在、は増補版として岩波教養文庫)、平田篤胤の校注、岩波講座東洋思想第15巻の子安、鎌田、野崎による「国学」の部、ほか単著でも宣長問題など数冊があったように思う。岩波講座において子安は、小林秀雄『本居宣長』を、《その全体が宣長という劇の再演の感慨を果てしなく言葉にしてみせたというおもむきをもつ》と賛している。その調子がいささか意外であった。

■小林秀雄の『本居宣長』。ちょうど一年前であろうか、松江の冬營舎でじつに美しい装丁の単行版をみて、あぁ、文庫を通読しおわったらと思い、手触りも覚えているが、まだあるだろうか。月に幾度か、せめて半日ずつでも静かに向き合いたい。

■神社。出雲大社であれ、近隣にある小さな村社であれ、路傍の小さな祠であれ、いまだコンビニの数を上回って私たちのまわりに存在しつづけるトポス。そこに私たちが感じ取る清澄とともにある畏怖=aweの心的構造について、私の師である野崎守秀は、「時間が消えうるような場」をつねに生成していることを挙げている。時間消失装置が点在しているのが日本という国土なのだとも換言できよう。

■野崎先生は、古層の信仰において「年越し」こそが最大の恐怖であったことをさらりと確信をもって語られた。35年前の自分にはさっぱりわからないことであり、バリ島・ウブドのカフェで手帳に図をもって示されたことだけが記憶に沈殿したままだった。ここ数年、頓原の来訪神・トロヘイの行事をたずねて以来、繰り返し蘇り、像をぼんやりと結ぶようになった。「今」を支えるものとして「無」がある。無の場所に神(という言葉)がなる。

■さて、しかし、古層から現代にまで届く射程を可能にしてたのは宣長である。先生は「宣長の息苦しさ」を繰り返し語り、宣長を解体しようとされていた。とてもそこには近寄れないと肌で感じたものだ。その仕事の大きさと迂遠さをある種の愚かさとして見てもいた。決して口にはせずとも、伝わっていたかもしれない。恥じ入るばかりである。

■宣長を解体する。その困難をもっとも周到に述してきたのが子安宣邦という人であったと思う。アカデミックの話ではない。それは「日本を解体する」と同義である。「今の日本は……」と語るすべての人の中に、宣長がいるのだ。これほどの呪縛があろうか。息苦しくもなろう。ことは想念の世界だけにとどまらない。コメ、日本の主食であるコメ。地位は低下しているとはいえ、ごはんとおかずという食の構造は変わりようがなさそうに思える。コシヒカリの生産が2割以下となり、茶碗が食卓から姿を消すかその形態・用向きが変わるような事態が「宣長を解体する」ということだ。

■深いところ、奥深いところから、日本を規定しているものの礎は宣長の仕事がなければなかったろう。日本語がいまのようでなかったであろう。かなも漢字も消えて、ローマ字表記になっていたかもしれない。もちろん宣長ひとりの仕事ではない。江戸時代から明治を経て大正・昭和・平成を生きた人々が営々としてつくりあげてきたものだ。

■だが、その間、多くの人が嘆いてきたように、これは「もたない」のかもしれない。日本なるものが「もたない」と最初に喝破したのは、荻生徂徠であった。「政談」を一読されれば、これは令和の日本のことかと目を疑われると思う。日本は終わっているが、延命はできるとものした政談。享保10年ごろのものである。コメを主食とする食の体系ができあがる中(速水融・鬼頭宏)、気候変動もともなって飢饉が頻発しはじめる世。爾来300年。

■杵築に詣でたときに、この祈りの形は、あと百年もたないのではないかと、そう思ったのだった。浅学非才の身を恥じながらも、解体に要するノコ一本の目立てを終えることが、残された齢をかぞえるに断念せざるを得ないのだろうが、子安宣邦89歳の仕事をみるに、途中であれなんであれ、できるところまで行こうかと、そうした希望を得た日であった。めでたきかな。

※モリが森として表記されることは比較的新しい時代のことで、杜、社、あるいは同じ場をツカと呼んだが、フロとも。雲陽誌の仁多郡に森をフロと記するところがある。

※少なくとも、大和言葉での自然の呼称は鳥瞰的視座をもたない。現代の私たちが森をイメージするときの、多様な林分で覆われた一定領域を示すことはまずなく、せいぜい境界を示す点である。宣長の古事記傅の注に、山海は、うみやまと読むのだとする応神天皇のくだりがある。山海は漢語の格であり、さんかいとは読むが大和言葉ではうみやまとなる。やまうみではない。
 山野はぬやま(のやま)。より近いもの、ふれることができるものが先にくる。移動をともなう、あるいは移動でしか関知できない空間の認識形態なのだ。

小寒の日の午後、杵築大社に詣でる

令和5年1月6日、小寒の日の午後、杵築の大社に詣でる。いつも行くように、八雲山、弥山を前にみながら歩を進められる、歴史博物館からの道を行く。北島國造館へ参り、そこで玉串をいただき、八雲山、その山塊の東の裾から湧出でて池をなす館の庭を横切るようにして、垣の内へ入るのだ。

穏やかな空気が心地よかった。無の空間、すなわち神の名を呼び出してきた場が、ほのかに、たしかに、そこにあると信じられた。この日は、三連休前の平日であり、正月にはたいそう賑わったという人の出も落着いてきていたのだ。境内を歩くにせよ、人の動きに気をとられることがないのだから、自ずと社や常緑の森、足もとの石畳、玉砂利、それらから伝わるものを、受け取りやすい。この日のこの時間に行かねばというものではないよね、と妻とも話した。もはや正月三が日に訪れることはないだろう。それでも、正月の初詣であると思う。