熊子の古を拾いつつ#地方史誌其の一

熊子(くまご)と、出雲地方で呼ばれてきたアワのことについて、いまだ調べること多いものの、まとめていこうと思う。記録の散逸、記憶の錯誤をおそれる。できるところから少しずつ書き足していく方式をとろうと思う。

あわせて、聞き取りを再開したい。その基礎資料としてつくるものでもあるが、遠い誰かの役にたてればと書き置く。

地方史誌其の一では、島根県内でのそれを中心に集めていく。順序はまた整理するとして、まだ一度も文字に起こしていない(であろう)ものから。基本的な記載法としては、全文を抜書きした後に注釈、解釈をつけていく体裁とする。
熊子(クマゴ、くまご)の表記は段落内で引用文献とあわせ、統一はしない。

■1.羽須美村誌のくまご

『羽須美村誌(下)』昭和63年,羽須美村誌編集委員会

第五項 くまご(こあわ)

麻畑の後作として、「くまご」を栽培した、これは麦と共に米の補給物として重要なものであった。
麻刈りした畑に、ほとんどがバラ蒔きをしていたので、水田の除草や、養蚕の合い間を縫って、手入れをするのだ。手入れといっても主に、間引きと除草である、真夏の太陽のもとでの仕事であり、手間のかかる作業なので、編み笠や、すげ笠、後にはコーモリ傘をさして行った。しかも一番間引き、二番、三番と、三回間引いて丈夫なものを、程よい間隔に残しながら雑草も取ったが、道具とてもなく素手の作業である。
年によっては、「ホージョウ」と言う害虫が大発生して、一日二日で、丹精こめた「くまご」が葉も茎も無惨に喰い荒されて、収穫皆無と言う年すらある。除法もなく、僅かな発生なら、捕獲駆除もしたが、大発生には全くお手あげであった。

一、収穫

一穂一穂を、穂を揃えて両手に一杯になると、根元より引抜いて、茎を適当な長さで切り一把にして、干架に掛けて乾燥する。

二、脱穀

脱穀は、麦と殆ど同じ方法で、打台にたたきつけて穂を落とすのであるが、これも隣同志で手間がえで行うことが多かった。
打ち落とした穂や粒は、蓆の上で、ブラ槌や、槌でたたいて、粒とし「大ドウシ」にかけて、粒に穂や雑物に選別し、雑物や穂は更にブラ槌等でたたいて、トウシに掛ける等数回繰り返し、粒はトウミに掛けて、小さいごみと粒に仕分けして、一応完了であるが、この作業も、大変な、ちりの中の作業で、全身汗とほこりとの闘いであった。反収二石も穫れれば上作である。
この「くまご」も年々減少して昭和十五、六年頃より極度に少なくなり、三十五、六年に至って殆ど姿を消してしまった。
昭和の初期までは、常食として米に混ぜて、ご飯に炊いていた極めて重要な食糧であった。御飯一升について二合ー四合(二割ー四割)を混ぜて食した。炊きたての温かいうちは、黄色で香りもよく、食べ易く味も悪くはなかったが、一旦冷えると、香りもなくボロボロして食べ難いものであったように記憶している。

◆1. 執筆者自身の食味に関する記憶が記されている。注視したいのは、くまごを「こあわ」とカッコづきで見出しにたてていること、そして麻の後作として栽培した旨である。今まで見てきたなかで、「こあわ」とはっきり書いているのはこの羽須美村誌のみ。アワは春蒔きの春アワと夏蒔きの夏アワに大別する分類があるが、羽須美村誌が記すくまごは夏アワである。夏アワであることが明白なものとして、出雲国産物帳の飯石郡絵図注書認指出帳の「八月熊子」がある。
◆2. 飯石郡絵図注書認指出帳の「八月熊子」には、「五月畑に種を蒔、八月熟、八月熊子と名附申候」とある。新暦でいえばおよそ六月中旬に播種、九月中旬に収穫ということだろうか。生育日数は90日ほどと短い(夏アワの生育日数は90〜130日)。また、この文書で注目したいのは熊子の特徴について「粟とほぼ同じだが、芒のないのが熊子だ」と説明していること。「粟同然に御座候え共、いぎ無御座に付、熊子と申候」。「いぎ」は芒のことだろう。
◆3. 上記1,2から羽須美村誌におけるくまごは、次の特徴をもつ。
・夏アワ
・コアワ
・ウルチ種
・脱ぷ後の色は黄色
◆4. 調製道具について……打台は大きな板のようなものであろうが、据え方など詳細は不明。ブラ槌と槌を併用しているところが興味深い。ブラ槌で荒くたたいて、小さくなるにつれて槌にかえていったのではなかろうか。次にひいた赤来町(谷地区)の調製が詳しいので比較するによい。
◆5. くまごを食したのは羽須美村全域であったのか……《昭和十五、六年頃より極度に少なくなり、三十五、六年に至って殆ど姿を消してしまった。》という変化は日本の山村における雑穀食に起こったものとほぼ同様である。もう少し詳細を掘り起こしてみたいものだが、羽須美の場合も、次の赤来(谷地区)の場合でも、手間がえ・てまがいと呼ばれた隣近所の共同作業で脱穀をしていることが、いったい何を物語っているのか、それを読み取ることからだろう。

■2.赤来町史のクマゴ

 『赤来町史』1972,赤来町史編纂委員会 編
第6編 赤来町の民俗〜
クマゴこなし
谷地区では稲のこなしが済んで十一月に入るとクマゴこなしが各部落でてまがいにより行われた。クマゴは粟の一種で米に混ぜて炊いたもので、谷では昭和初期まで常食としていた。米一升にクマゴ一合を、多く混ぜる家では二合〜三合を混ぜて炊いた。なお、クマゴをたくさん作る家では三石〜四石も収穫した。
「今日はうちにクマゴを叩きゃあ思いますのでお願いします。」と田植え組(五、六軒〜七、八軒)へ依頼する。この作業は夕方から夜にかけて行われ、依頼を受けた家から二名ずつぐらいが、それぞれ籾トオシと米トオシを持って集まる。まず稲をおろした跡のハデ(稲架)からクマゴをおろし、臼庭へ運ぶ。次に臼庭へ苫を立て四畳半ぐらいの広さに三方を囲む。その中に餅搗臼を横にして据え、叩き台とする。この臼にクマゴの穂を打ちつけて落とすのである。これをツルオトシという。婦女子が、落ちた穂をコダタキといって槌でまた叩き、しかる後、籾トオシでおろし、次いで米ドオシでおろす。このおろし滓を二人してそれぞれが長さ四尺、直径二寸位の棒を持って向かい合い、再び「ホイサッサ、ホイサッサ」の掛け声で叩く。「座敷の方へ。」「ダヤ(厩)の方へ。」という合図で右へ左へと交互に方向を変えながら叩いて行く。こうしてまたトオシでおろす作業が繰り返されてゆくのがクマゴこなしである。
この作業の日、夕食は先方で食べた。コダタキが終わると、煮〆、ナマス大根などで夕食を食べた。酒は出なかった。また夜の作業はコエ松を焚いてその明りで進められた。

◆1. 谷地区は旧谷村に該当する地区であるが、谷村の消長が比較的短いため、その前身である3つの村をあげておくと理解の助けになる。すなわち、塩谷、井戸谷、畑田の3村である。また谷村は旧邑智郡であることもふまえておくと、谷地区
◆2. この項は農の共同作業について、稲作での事項に追加するように入っているもので、食生活のなかで、再度くまごのことは出てくる。

 同赤来町史より
さて明治から大正にかけての食事の概況を記すと次のようになる。この記録は昭和四十四年の夏、来島地区、赤名地区、谷地区における六十才以上の老婦人が語った若き日の食生活をまとめたものである。
主食といえば、米三分にクマゴ七分のものだった。朝はたいていが茶粥に漬物。昼は飯に漬物。ハシマには飯に漬物。夜も飯に漬物それに煮しめ。そして自家製の味噌でつくった味噌汁があった。味噌汁の中身はそれぞれ時節のものが入れられ、タカナ、ネギ、タケノコ、ナスビ、大根など……(中略)……主食の過半を占めたクマゴはこの昭和の初めまで用い、特に谷地区ではクマゴこなしの共同作業までみられた。

◆1. 該当ページ数など不明ゆえ、要確認。勝部正郊氏の取材執筆である。
◆2. 明治から大正にかけて「主食の過半を占めたクマゴ」とまで言える状況が、谷地区のみならず来島、赤名にもあったということだろうか。ここではクマゴはアワの一種であるが、当地におけるアワはすべてクマゴであったと考えてしまう。それにしてもアワの比率が高いのはなぜかという問が離れない。作業仮説として、水田稲作と同時に取り組みやすかったのではないか。当地は(中国地方全体にいえることだが)山岳畑作地帯ではない。

■3.掛合町誌のクマゴ

『掛合町誌』1984(昭和59),掛合町誌編纂委員会
第5章 近代の掛合地域〜四 村の生活の種々相

2食生活 主食

日に三回の主食は大正のころは米と雑穀との混ぜ合わせが多かった。特に節約して家計を締める家とか、苦しい家計をあれこれと切りまわす家では、たとい農家であっても雑穀を多く混ぜたり、朝晩あるいはどちらか一方を粥ですませたりする家も多く見られた。

大正のころの飯は米が七に対して雑穀三の割合で、大麦・小麦・くまご(くまごに傍点)がまぜられた。このほか甘藷(さつまいも)・大根・りょうぶ(りょうぶに傍点)もまぜて補いとしたが、かつて奥飯石地域に属していた波田地区は、麦・甘藷は栽培が少なかったから、くまご・りょうぶ・大根などが多く混ぜられた。

くまごは昭和の初めごろまでは見かけ、りょうぶは春の若葉を摘み、茹でて灰汁出しをして干し、必要なときに米に混ぜて炊いた。このくまごの割合は米七合に三合、あるいは米八合に二合程度であったが、二合のくまごが混ぜられると、炊き上がった飯はその色で黄色になっていた。

このほか、くず米を粉に挽き、あるいは雑穀の粉で団子汁をつくり、朝晩主食のかわりとした。また、えのこという葛の根を掘り、擦りつぶして澱粉をとり、主食の補いとした。これは飢きんのとき特に大切な食糧となった。だから大正のころまでは混ぜものの入らない白い飯は、正月・祭のときくらいに限られていた。

◆1.  わかりにくいのだが、大正のころの「主食」について、米7:雑穀3 の割合としているのは、雑穀のなかに麦(大麦・小麦)を含めているところが興味深い。

◆2.  出雲地方山間部において、雑穀がまだ山間部では主食の一端をになうほどの存在感があった時代、くまごが赤来にあって掛合にあったのなら、頓原にあってもいいのだが、痕跡を見つけてはいない。

■4.大和村誌のクマゴ

大和村誌 p.638(第三章民俗慣習ー第ニ節食物)
(江戸から明治にかけての食として)主食は米三分、クマゴ(粟)七分で、時によって粟のかわりに麦、甘藷、または大根や菜葉を細目に刻んだものを混ぜて炊いた。

◆1.   大和村(現美郷町)は、農文協の「島根の食事」の中でくまごめしを載せている都賀の在するところである。
◆2.   米との混ぜ飯のなかで、他の地誌と比して、もっともくまご(粟)の割合が多い。この表記の仕方では判別しかねるが、粟=うるち粟=クマゴという使い方であったのかとも思われる。が、しかし、都賀の老人にくまごを尋ねた際、くまごとあわは違うということはその相違点については不確かなものの、異口同音に述べておられた。

熊子(クマゴ)のこと〜その2 – 樟の森の研究室

■5.川本町史のクマゴ(未稿)

資料逸失。出雲市立中央図書館でとりなおす。

■6.飯石郡誌のクマゴ

 『飯石郡誌』飯石郡役所編,大正7年刊の復刊として名著出版より昭和47年刊
p.527(第三章民俗慣習ー第ニ節食物)
(江戸から明治にかけての食として)主食は米三分、クマゴ(粟)七分で、時によって粟のかわりに麦、甘藷、または大根や菜葉を細目に刻んだものを混ぜて炊いた。

〜つづく

本の記録〜令和3年1月5日

久しぶりに記録する。年末年始に目を通す時間くらいはと思っていたが、結局のところ出来ず。再読のために覚えとしてここに置くものである。

†. 『豊穣と再生 宗教学概論2;エリアーデ著作集第二巻』M.エリアーデ,1968;久米博訳,1981,せりか書房/県立中央図書館より借
日本の民俗信仰のなかで見られる樹木信仰との類比をどう捉えていけるかを確かめてみたく。また、メイポールをまつりの後に焼くという記述の確認のため。出雲大社境内で平成○年に発掘された柱の先端が焼かれていたことと、メイポールでのそれを同じ理由に基づくものとしている論文を瞥見し、いま少し掘り下げてみるべく。

†. 宮本常一『旅人たちの歴史1・野田泉光院』1980,未来社/松江工業高専より借。
 木次図書館にて取寄。資料として。 

†. 『日本思想体系46・佐藤一斎,大塩中斎 』校訂:相良 亨, 溝口 雄三, 福永 光司,1980, 岩波書店/木次図書館より借。
佐藤一斎については、言志録、言志後録、言志晩録、言志耋録の四録を所収。
大塩中斎では、洗心洞箚記。

†. 大室幹雄『正名と狂言――古代中国知識人の言語世界』1975,せりか書房/島根県立図書館より借
 古書の札が残っている。所蔵は禁帯出が別に一冊あり。貸出用に求めたのだろうか。県内公共図書館の蔵書は、県立に2冊、島根大付属に1冊。古書を求めて再読を期すことに。

†. 『民衆史の遺産・第八巻 海の民』2015,大和書房/島根県立図書館より借
内海延吉「海鳥の嘆き」所収。この1編と編者として大和岩雄とともに名を表にしている谷川健一の序論が、『日本民俗文化資料集成』第五巻の「渚の民俗誌」と同一(1990年、三一書房刊)。

†. 山内志朗『湯殿山の哲学――修験と花と存在と』2017,ぷねうま舎/島根県立図書館より借
冬に読んで春を迎えたい。「存在が花咲く」

†. 末木文美士『近世の仏教――華ひらく思想と文化』2010,吉川弘文館/島根県立図書館より借
ほとんど目を通せず。以下目次。
 近世仏教を見なおす―プロローグ
 中世から近世へ
 開かれた近世
 思想と実践
 信仰の広がり
 近世から近代へ―エピローグ

†. 藤野 裕子『民衆暴力――一揆・暴動・虐殺の日本近代』2020, 中公新書/島根県立図書館より借
序章のみ読。こうしたまとめ方は求められているものなのだろう。で、それでいいのかと思いをいだきつつ、謙虚に1章以下を読む機を次回に。
序章 近世日本の民衆暴力
第1章 新政反対一揆―近代化政策への反発
第2章 秩父事件
第3章 都市暴動、デモクラシー、ナショナリズム
第4章 関東大震災時の朝鮮人虐殺
第5章 民衆にとっての朝鮮人虐殺の論理

†. 『葬儀と墓の現在――民俗の変容』国立歴史民俗博物館編,2002,吉川弘文館/島根県立図書館より借
再読を願いつつ、目次を置く。書誌データとして目次を表示するウェブサイトは、東販系のe-honのみか。いくつかの版元サイトでもそう。いやはや。ここもe-honからひいているのだが、肝心の著者名がなかったため加筆している。購書空間から人が消えていく。
第1部 葬儀と墓の変容
 赤嶺政信,奄美・沖縄の葬送文化―その伝統と変容
 金田久璋,樹木葬とニソの杜―樹下の死・森神・他界観
 武田正,東北地方の葬送儀礼―山形県米沢地方を中心として
 福澤昭司,葬儀社の進出と葬儀の変容―松本市を事例として
 米田実,大型公営斎場の登場と地域の変容
 太郎良裕子,清めの作法―明治から平成へ
 板橋春夫,葬儀と食物―赤飯から饅頭へ
 関沢あゆみ,葬送儀礼の変容―その意味するもの
第2部 討論 葬儀と墓の行く方
 沖縄の洗骨改葬,葬祭業者と葬祭場,葬儀のかたち,葬送の新しい兆し,赤飯と清め,お骨の行く方,私の霊魂観
 新谷尚紀,フォーラムを終えて―変化を読み取る民俗学へ

†. 村上重良『国家神道』1970,岩波新書/島根県立図書館より借

令和2年秋の畑

秋ももう終わろうかという時期にかかっているが、収穫など振り返りながら備忘を記していく。

◆オリゼ畑10/26の備忘
†. 小麦、大麦の播種
例年よりも1週間ほどは遅くなっていると思う。慌てて蒔いている。今日はオリゼ畑へ少々。明日明後日で蒔き終えられるか。
†. 黒大豆(赤名黒姫丸)
今年は播種期に長雨だったり、まったく降らなかったりなどの影響で、ナメクジや鳥にことごとく芽を食われてしまい、蒔き直しもしたものの、畝のなかで数株だけが生き残るような状態だった。種が少しでもとれればということで置いている。枯れて倒れるくらいのところまで置いておこうと思う。さやのなかに一粒しかないもの、そもそもさやが小さすぎて豆と呼べないふくらみのままのものなど、株全体のバランスもひどいものだが、ここからとったものでどこまで来年育てられるか。だろう。
†. サクラ豆
金木犀のまわりに高めの竿だてをしてはわせた。これはうまいやり方だったと思う。収穫まであと20日くらいか。オリゼ畑は南側が擁壁、まわりも住宅に囲まれたせまい土地ゆえ日照時間が短い。また、風が通りにくいので虫もわきやすい。これら条件の克服としては高く伸びる雑穀なり、つる性の豆をたてるというのはよい対処なのだろう。台風にやきもきしたものだが、今年は大きな風をもたらすものはなかった。
†. トマト各種
ナス科は天候条件がよくない年だったといえようか。どれもよくなくナスは種もとれてない。今年は片付けることはしないで、枯れるにまかせて畑においたままにしてみようと思う。ナスは跡地に麦を播種することもあって片付けた。
†. タカキビ
まずまずといえうようが、どうだろう。もっとまとまった面積がないと倒伏の問題をクリアーできない。アマランサス、タカキビとあわせて山の焼畑でという線だろう。

◆オリゼ畑,山畑10/27の備忘
†. 小麦、大麦の播種2日目
裸大麦を昨日に引き続き、畝を手入れした後に蒔く。擁壁側の土は水気が多いこともあってかまだまだ団粒性が低いように思う。這う草が多いのでそれらはできるだけ取り除いた。今思うに、そのままでもよかったのかもしれない。今年からのやり方として、生えている草はできるだけそのままにしておくようにしている。例外的にドクダミとスギナは除いて。畑の草も何年かで変化してきた。ようやく畑に生える草が増えてきていることもある。冬の様子、春の様子をみながらなのだが。
†. アマランサス
遅れての脱穀。一月近くたっているものが大半。日にあたっていないところの束は酸化だろうか、色が黒っぽく変わってきている。湿っぽいこともあるだろう。オリゼ畑の軒で同じく一月近く干しているものはそんなことにはなっておらず、また、前回脱穀したもののように秋深くなくかつ2〜3週間までしかたっていないものならば、状態はよい。
†. 大豆
気を少しとりなおして、山畑の白大豆でとれるものはないかと探してみた。まだ青いものヒトさやほどがついているものを残し、4莢ほどばかりを採取した。手元に残っている古い種子が5粒くらいはあったかもしれない。それらとあわせて4〜5株でも種をまければ来年、オリゼ畑に蒔いてみようと。オリゼ畑の黒大豆は毎日みていく。地面に倒れいるものは枝を土にさして少しおこしておいた。

◆オリゼ畑,11/5の備忘
†. 小麦、大麦の発芽
一昨日だったろうか、最初に蒔いたものが発芽しているのを確認した。最後に蒔いたものの記録がないが、3回目として11/2である。

◆オリゼ畑,山畑、今年を振り返って
どの作物にとっても、きびしい年だった。気候の不安定もあるが、めんどうを見きれなかったという面が大きかったと思う。
重点作物をしぼって、注力していこうと思う。次の5つ。
・アマランサス
・タカキビ
・小麦、大麦
・白大豆、黒大豆
・サクラマメ

豊後の茸作、三平がみた匹見の山々〜#1

 山を移動する職能集団の足跡を追いかけている。ここ何年か。彼らの目に、山は、森は、谷は、どう映っていたのだろう。何を食べ、どこに住み、どんな寝床で眠りにつき、目覚めたときに耳にするのはどんな音や声だったのだろう。
 説話文学、芸能など、主として文字に残されたものを「よむ」ことからのアプローチ。またそれらを含めた文献史学から確たる事実を「ひろう」ことをもって足場をつくっていくアプローチ。その記憶がある翁媼から聞取るあるいはその記録を読むアプローチ。どれをとっても心もとない。それぞれ複合するといえばよさそうにみえるのだろうが、どれも中途半端に終わるであろう先が見えてしまう。
 どうすればいいのか?
 旅を範とすればよいのだろう。地図はあるが、優先する現実はつねに目の前にある。道しるべは頼りになるが、ないところであきらめるのではなく、そこで手に入るものや既知のことなどを、自らが総合判断して、先へ進む。これから書き記す一連のものは、日記とも備忘ともとれるようなそんな記録であり、ひとつの旅なのだ。

 遠く古代の木部の民、タタラ、鍛冶屋、木地師、くぐつ、サンカ、山伏……。
 出雲の山墾りと称し、ひとり藪山で、鉈や鍬を手に、竹やら草やらを相手にしながら、百年二百年三百年前の「生活」を想っては、家に帰り文献を漁ってきた。
 が、私が知りたいと求めるものはそこにはなく、ないからこそ、探し求め続けるのであるが、そんななかで、茸師という存在が気になりはじめた。茸師は椎茸栽培業者として現在もその生業としての地位があることもあり、「山の民」の列に加わることはないものだが、彼らのルーツには「山の民」と共通する何かがあるのではないか。かすかにではあれ、である。その手がかりを糸の先として、山の思想、その種子を、私たちの日々の暮らしのなかに見つけてみようという趣意をもって取り組むが、この一連の文である。
 名をあげるにおそれおおいが、柳田國男の「山の人生」本居宣長の「古事記伝」、そして中井久夫『世界における索引と兆候』を座右におきつつ。

大分県津久見市の偉人としての「三平」

 三平の墓石はもとあった場所から移され、現在益田市匹見町紙祖にある(34°34’00.6″N 132°00’51.4″E)。「茸作 豊後國市平墓」「嘉永五壬子十一月死去」「世話人 廣見河内村中」…追記a.
 墓石の銘はこれだけであるが、「壬子」「死去」の箇所は読み取りにくく推測に基づく。名が三平ではなく市平であることの理由は未詳。

これまで手にした史料からわかることの概要を記す。

 享和三年(1803)、現津久見市彦ノ内生まれ。天保5年から5年間、肥後国深葉の官営事業所で椎茸栽培に従事。当時、同郷同僚であった徳蔵とともに出国。徳蔵は現津和野町横道に、三平は天保11年から現益田市匹見町広見河内に入り、椎茸栽培事業をはじめる。

 三平は嘉永5年に雪山でなくなる。かつて徳蔵と同じく深葉の事業所で同僚であった嘉吉が後年(明治中頃か)語ったことにより、以下のことが伝わっている。

《嘉永5年12月。大雪の降る夕刻、三平は茸山を下って里に出た。その帰路、平泊というところの二軒家の知人の家に立ち寄った。おりから吹雪はいよいよ激しくなったので、知人は泊まっていくようにすすめたが、三平は雪の中を山へ帰っていった。

 春を迎えた二軒家の人たちは、三平がおりてこないのを不審に思い、茸山をたずねた。そこには雪に埋もれて冷たくなっている三平の姿があった。三平は平泊の人たちによってねんごろに葬られた。匹見からは三平の死を知らせる者が郷里に飛んだが、三平の家では絶えて音信のなかったことであるので、かかわりなどをおそれて使いをひきとらせた。

 春、やがて、茸山には爆発的に春子が発生した。ひとびとは、いまさらながら、三平の茸づくりに驚嘆した。それからこの地方は椎茸の栽培地として知られるようになった。そして後年、三平の遺徳をたたえ、供養塔を建て、三平祭りを営んでいるという》※1、※2などによる

 また、大分県津久見市長泉寺境内にある椎茸碑の中には、次の一文がある。

《往昔、天保の頃、津久見の先覚者彦之内区三平、西之内区徳蔵、嘉吉、平九郎、久吉等の椎茸栽培業研修に端を発し、三平、徳蔵は石見へ出向、椎茸栽培業を経営す。是中国に於ける専門事業者の始祖なり》

 三平が椎茸栽培を手がけていた山はどこにあったのか。墓のあるそばだろうか。墓の世話人には廣見河内村とあるので、廣見河内のどこかの山だろうか。ところで、豊後に残る記録には、平泊の人たちによって葬られたとある。
 匹見在住で地元の民俗に詳しい渡邊友千代さんによれば「小原集落の平溜(ひらだまり)というところに墓があったそうです。現在は、そこには人が住んでいませんが、出身者が匹見支所の近くに移動させたとのこと」(田代信行さん取材による)
 そして、平溜は廣見河内とはずいぶんと離れているまったく別の集落である。
 未詳なる三平のことを知る手がかりは、ここらあたりにあるのだろう。 

 三平、徳蔵はいわばパイオニアであるが、明治に入ると数百人の茸師が豊後から石見に入ったものと思われる。大庭良美『石見日原聞書』※3には明治9年生まれの薬師寺惣吉の話が詳細に記されている。惣吉が豊後から柿木村椛谷に入ったのは明治26年。当時はまだ植菌でなく鉈目を入れて胞子の活着を得る方法が主であった。

国東治兵衛の椎茸栽培はあったのか

 先にあげた顕彰碑に「三平、徳蔵は石見へ出向、椎茸栽培業を経営す。是中国に於ける専門事業者の始祖なり」とあるように、大分の椎茸栽培顕彰会などでは、三平と徳蔵が石見に入った天保11年をその魁としている。

 しかし、もっと早い時期、石見地方で椎茸栽培が事業的に行われていたことを、短文であるが、載せているものがある。それは「紙漉重宝記」を著し藺草栽培による畳表を遠田表として全国的特産品として育てた国東治兵衛の功績としてである。時代は三平が石見に入った天保年間より五十年ほどもさかのぼる寛永年間以前のことである。

 千葉徳爾は、『西石見の民俗』※4所収の「土地利用の展開」のなかで、西石見の林産物としてナバ(椎茸)が多いことをあげ、次のように記している。

「記録によれば、豊後から益田に移住した国東治兵衛が、畳表と共に移入してひろめたとある。しかし、この地方全般にひろまったのは明治中期からである」(P.35)

 ここでいう「記録」がなんなのかは、一見わからない。「豊後から益田に移住」したのは治兵衛の先祖であって本人ではないので、同じ誤りかそう誤読させやすい記述となっている史料なのか。ただ参照したもののひとつが矢富熊一郎『益田町史』であることは、巻末史料にもあることから確かだろう。※5 以下にひく。

「国東治兵衛の郷里は、(益田町の)隣村遠田村である。…(中略)…彼が晩年に当る寛政十年、紙問屋として郷里に働いたことは、彼の著「紙漉重宝記」に依って知られ、藩主松平周防守から抜擢されて、「間仕事取調係」に委嘱されたことは、松平家古文書によって知られる。……中略……領内産業奨励の事務を托せられるや、畳表は勿論のこと、山地帯美濃郡奥部地方には、楮を栽植させて紙漉の事業を奨め又椎茸の栽培を徹底させて、間仕事たる副業方面の、向上発達に至大な貢献を与えた。」(P.427)

 ますますわからなくなりそうだが、そうではない。国東治兵衛と三平、このふたりはどこかでつながるはずである。椎茸は当時にあって重要な商品であり、そこに商人の介在が必ずあったはず。国東治兵衛は豊後商人とのつながりもあり、畳表はいわゆる北前船、廻船問屋を通じて東北から日本海を通り下関を通り瀬戸内海を大阪まで行き交っていたのである。
 この航路と豊後の茸師が少なからぬつながりを持つであろうことは、島根県内において、石見に続いて大分の茸師が入った地が隠岐島であることからも、伺える。
 山と海をつなぎ、二百年前と今をつなぐ物語でもある。
 その、つながりを求めて、この渉猟はしばらくつづく。国東治兵衛については、項を改めつつ並行して追っていくことになろう。
 

参照史料
※1 青木繁,1966『豊後の茸師―シイタケづくり名人記』富民協会
※2 源兵衛翁顕彰事業発起人会,1978『大分の茸山師』;大分県立図書館蔵
※3 大庭良美,1974『石見日原聞書』未来社
※4 和歌森太郎 編,1962『西石見の民俗』吉川弘文館
※5 矢富熊一郎,1952『益田町史,第1巻』益田公民館…第2巻だったかもしれない

その他参考史料
佐藤成裕,寛政8『温故斉五瑞篇』
伊藤達次郎,1952「椎茸栽培の史的考察」;日本林學會誌/34巻・9号
沖本常吉編,1964『日原町史 上巻』『日原町史 下巻』日原町教育委員会
牛尾三千夫,昭和52『美しい村―民俗採訪記』石見郷土研究懇話会
矢富熊一郎,1966『石見匹見民俗』島根郷土史学会

関連雑記
茸師と飢饉〜樟の森の研究室

追記a.
過日、現地で墓碑銘を確認したところ。写真でしかわからなかったのとは違い、以下である。
「茸作 豊後國市平墓」
「嘉永五子年十二月廿日」
「世話人廣見河内村中」

◆追記b
 5年来の宿題でもある。

日原の茸作、横道の山

今日は2020年の9月7日。大型の台風が接近することが予報され、学校や一部の官公庁が臨時に休日となるような日だった。家の外を整理し、この夏つくったばかりの庭木に支柱をたててもらったりして迎えた日だったが、幸いにも大きな風雨に見舞われることなく家も庭も無事であった。時折強風にガタガタと音がする以外は穏やかといってもいい日和ではあったが、不測に備えているため、どことなく落ち着かず、書類の整理やたまった経理を片付けていたりした。
 そんな中で、昨日来、茸師三平のことを調べていた。手元の資料では行き詰まり、新たに見るべき資料をあげるのと、匹見・日原方面への取材計画を練りながら、大庭良美さんの『石見日原聞書』を読み直していた。調べごとの備忘としてここに記しておく。

2年前の2018年8月に、宮本常一『山と日本人』を紐解きながら、巨木が眠る深山の木々を「切れるわけがない」と、おそらくはふたつの意味で口にしていた日原や吉賀の地の人らの声を思い出したのだ。(本の記録〜2018年8月)。 直接に耳にしたわけではない。祖父やその父たちが言っていたその語りを思いとともに口にすることができた人たち数人が「あぁそうだ」「そう言っていた」とうなずきあうその場に私も居合わせていたに過ぎない。益田での「森聞き」上映会(2012年1月)でのことだ。つい1年前のことのように思い出せる。8年ごしの宿題なのかもしれない。

さて、以下に「石見日原聞書」から「きのこ山師」の項をひきながら、注釈を加えていきたい。随時加筆するものとして。

◆きのこ山師より
 私は大分県の豊後のもので、明治九年生まれ、今年八七になります。

 滝元の薬師寺惣吉さんの語りである。豊後の茸師三平は享和3年に生まれ、嘉永5年に没しているから、その曾孫くらいの世代だろうか。母の話がこれに続けて出てくるのだが、そうしたことが存外に重要だと思われるのだ。

私はナバツクリで、島根県へはじめて来たのは十八の年でありました。柿木の椛谷(かばたん)のしもの地蔵さんのおんなはる溢(えき)で、そこは山奥で人をあんまり見たことがないから、子どもがナバツクリを見て、キノコヤマシが人間を見たようなチンコを出して小便しとったというた。

 溢(えき)は、小さな谷を意味するこの地方の方言である。言葉に込められたものが私にはまだわからないが、注意して見ていきたい。えきは妻にきいてもわからないとのこと。意味だけではない感情のようなものがこうした語句にはついているものだ。それを感じてみたい(知りたい)。※1
 薬師寺惣吉さん(以下、惣吉と記載する)が島根に来たのは明治27年か。まだ江戸時代から続く村のあり方が残っている時代である。そのなかでも茸師という存在の目新しさを物語ってもいる。惣吉は椛谷で数年を過ごした後、日原へ入っていくのだが、当時、ほかにもたくさんの茸師が豊後から入ってきたようだ。
 別項の「椎茸(なば)」にはこうある。

 日露戦争よりも前、豊後からナバ作りがじょうに来よりました。あっちい、こっちい、広い山を買うてナバを作り込んで、山に小屋掛けをしておりました。冬は山番だけが残って、時期になると皆やって来ました。ナバは四尺に五尺くらいな箱に詰めて送りよりました。中にはここに落ち着いた人もおります。(横道 安見藤太郎83歳・昭35,3録)

 日露戦争は明治37〜38年だが、明治30年を過ぎたあたりから5年くらいがそのピークだったのではないか。惣吉はその中でも先駆的な位置にいたのではないかと推測する。このあたり、源兵衛翁顕彰事業発起人会編「大分の茸山師」で確かめてみたい。

 宮本常一が『山と日本人』で語っていた日原の奥のこと(本の記録〜2018年8月)だが、『石見日原聞書』のなかで、木こりが山で木を切るとき、その儀礼について語られているところを確かめることはできなかった。その木こりが岐阜からきていたということは、いくつか重なるものもある。
 たとえば「官林伐採」の項で、横道の吉松吉十さんがこう語っている。時代は明治35年に道路が横道につき、線路が41年〜42年についたその時代の話としてである。

 木挽きは主に岐阜の者が来てやり、木馬道は土佐の者がつけて出しをやりました。多い時には伐りと出しで三〇〇人くらいおりました。

 吉十さんは、道路がつく前、直営の伐採がはじまる前にも木だしがあったことを少しふれている。宮本が残している、日原の人はだれも伐ろうとしなかった木が切られていくその発端としての岐阜からきた木こりの伐採は、その頃の話になるのだろうか。
 同じく「官林伐採」の項で、下横道の大谷吉三郎さんは、よそものが大半であったことをこう語っている。

 山仕事をする者は何百人とおる、これに使うものはすべてトロであげました。仕事しは土佐から四国、広島県の山県郡の方の、よその者が主でありました。よそもんは六〇銭、七〇銭の仕事はせん。木出しは木馬でドバまで一日に一〇石も一五石も出す。木馬はあぶない仕事で年に二、三人は死にました。その頃は横道は仕事しがじょうに入って、祭りにはよそ者が喧嘩をする。年寄りなどは恐しうて行けんような有様でありました。

 よそものがたくさん山にやってくるのは、茸師もそうであったが、明治後期からはじまるこうした数百人規模のものは後にも先にもないものだろう。
 タタラも多いところでは百人をこえてはいただろうが、三百人ほどの大きなところが石見にあっただろうか。どうだろう。茸師集団も数十人くらいであったことが伺える。
 古くは小集団としての木地師、そして近世からのタタラ、茸師、近代の大規模伐採(なんと呼んだらいいのか)、これらに共通するものを意識しながら読み込みを進めていく。
 まずは、移動する集団であること、樹木の豊富な深山に入るものであること、のふたつ。

 移動性、そして樹木の生い茂る深山、ふたつともが近世すなわち室町後期から江戸時代にかけて失われ続けていったものであることをも確かめながら。すると、鹿足郡で最大の深山が横道にひろがっていたことがみえてくると思う。
 豊後の茸師、その中国地方への先駆者として津久見の人たちがあげるふたり、三平と徳蔵。三平は広見河内で、そして徳蔵は横道で茸山をはじめた。江戸時代も後期に入ると、ほとんどの山は草山になっている。江戸中期に描かれたと推されている石見国図をみてもはっきりしている。
 日原聞書を読み直していて、横道の南の深山(と思っていた)、安蔵寺山も火を放たれ、草山となっていたことを伺わせる聞書があり、驚いたのだった。

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(つづく)

※1「えき」その1…小学館『日本国語大辞典』には方言として3項ある。
1)中央の縦谷から左右に派生した小谷。支谷。《えき》島根県、広島県山県郡
2)谷。谷間。《えき》島根県、広島県、山口県阿武郡 《えきなか》島根県鹿足郡
3)へんぴな所。《えき》島根県
 『石見日原聞書』を読んでいて、「えき」という言葉を使うときには、自分がいる・いた・住んでいる場所を指すときに出るのではないか。「へんぴなところに住んでいて」というような。卑下や謙遜と似ているが違う何か。含み、深みのある言葉だと思うのだ。鹿足郡で用例のある「えきなか」という言葉をたどっていけば、もうすこしわかるかもしれない。2020/10/26
 
※1「えき」その2…篠原徹は、昭和48年(1973)「Ethnobotanyから見た山村生活」に、岡山県湯原村粟谷における植物名が、その利用(分類と伝承)と深く結びついてきたことを述べたあとで、山の地形名も区分もそうであると指摘しその具体をあげている。そのなかに谷について、サコとタニは水が常時流れている場かそうでないかという区分を示している。ほかの地形もあわせていくつかを拾ってみると、サコがタニの上部平坦地であるのに対し、エキはタニの下部平坦地であって常時水の流れていないところではないのかと、そう考えて今後見ていくとよいのではと思い追記する。
《ミヤマ(ブナ林を主とする落葉広葉樹林地)・タカツンゴ(山の頂上付近)・ソネ(尾根)・タワ(山の鞍部)・ソウリ(もと焼畑地帯で今は草刈場)・ズリ(崖など土壌が露出したところ)・シバヤマ(シバを採る山)・タニ(水の常時流れる谷)・サコ(水の常時流れていない谷の上部の平坦地)・ナル(山の斜面の平坦部)・ヒラ(山腹)・シロ(茸の生えそうな場所)・ホキ(渓流岸壁)・ウオキリ(魚が上れないような場所)・ジル(山の中の湿地)・サワ(谷の源頭部)・セト(谷で両側の山がせまって最も細くなった部分)・ハラ(原野)・ナメラ(谷で岸壁が露出して掘れないところ)・クボ(耕地)》2020/10/24