令和2年秋の畑

秋ももう終わろうかという時期にかかっているが、収穫など振り返りながら備忘を記していく。

◆オリゼ畑10/26の備忘
†. 小麦、大麦の播種
例年よりも1週間ほどは遅くなっていると思う。慌てて蒔いている。今日はオリゼ畑へ少々。明日明後日で蒔き終えられるか。
†. 黒大豆(赤名黒姫丸)
今年は播種期に長雨だったり、まったく降らなかったりなどの影響で、ナメクジや鳥にことごとく芽を食われてしまい、蒔き直しもしたものの、畝のなかで数株だけが生き残るような状態だった。種が少しでもとれればということで置いている。枯れて倒れるくらいのところまで置いておこうと思う。さやのなかに一粒しかないもの、そもそもさやが小さすぎて豆と呼べないふくらみのままのものなど、株全体のバランスもひどいものだが、ここからとったものでどこまで来年育てられるか。だろう。
†. サクラ豆
金木犀のまわりに高めの竿だてをしてはわせた。これはうまいやり方だったと思う。収穫まであと20日くらいか。オリゼ畑は南側が擁壁、まわりも住宅に囲まれたせまい土地ゆえ日照時間が短い。また、風が通りにくいので虫もわきやすい。これら条件の克服としては高く伸びる雑穀なり、つる性の豆をたてるというのはよい対処なのだろう。台風にやきもきしたものだが、今年は大きな風をもたらすものはなかった。
†. トマト各種
ナス科は天候条件がよくない年だったといえようか。どれもよくなくナスは種もとれてない。今年は片付けることはしないで、枯れるにまかせて畑においたままにしてみようと思う。ナスは跡地に麦を播種することもあって片付けた。
†. タカキビ
まずまずといえうようが、どうだろう。もっとまとまった面積がないと倒伏の問題をクリアーできない。アマランサス、タカキビとあわせて山の焼畑でという線だろう。

豊後の茸作、三平がみた匹見の山々〜#1

 山を移動する職能集団の足跡を追いかけている。ここ何年か。彼らの目に、山は、森は、谷は、どう映っていたのだろう。何を食べ、どこに住み、どんな寝床で眠りにつき、目覚めたときに耳にするのはどんな音や声だったのだろう。
 説話文学、芸能など、主として文字に残されたものを「よむ」ことからのアプローチ。またそれらを含めた文献史学から確たる事実を「ひろう」ことをもって足場をつくっていくアプローチ。その記憶がある翁媼から聞取るあるいはその記録を読むアプローチ。どれをとっても心もとない。それぞれ複合するといえばよさそうにみえるのだろうが、どれも中途半端に終わるであろう先が見えてしまう。
 どうすればいいのか?
 旅を範とすればよいのだろう。地図はあるが、優先する現実はつねに目の前にある。道しるべは頼りになるが、ないところであきらめるのではなく、そこで手に入るものや既知のことなどを、自らが総合判断して、先へ進む。これから書き記す一連のものは、日記とも備忘ともとれるようなそんな記録であり、ひとつの旅なのだ。

 遠く古代の木部の民、タタラ、鍛冶屋、木地師、くぐつ、サンカ、山伏……。
 出雲の山墾りと称し、ひとり藪山で、鉈や鍬を手に、竹やら草やらを相手にしながら、百年二百年三百年前の「生活」を想っては、家に帰り文献を漁ってきた。
 が、私が知りたいと求めるものはそこにはなく、ないからこそ、探し求め続けるのであるが、そんななかで、茸師という存在が気になりはじめた。茸師は椎茸栽培業者として現在もその生業としての地位があることもあり、「山の民」の列に加わることはないものだが、彼らのルーツには「山の民」と共通する何かがあるのではないか。かすかにではあれ、である。その手がかりを糸の先として、山の思想、その種子を、私たちの日々の暮らしのなかに見つけてみようという趣意をもって取り組むが、この一連の文である。
 名をあげるにおそれおおいが、柳田國男の「山の人生」本居宣長の「古事記伝」、そして中井久夫『世界における索引と兆候』を座右におきつつ。

大分県津久見市の偉人としての「三平」

 三平の墓石はもとあった場所から移され、現在益田市匹見町紙祖にある(34°34’00.6″N 132°00’51.4″E)。「茸作 豊後國市平墓」「嘉永五壬子十一月死去」「世話人 廣見河内村中」…追記a.
 墓石の銘はこれだけであるが、「壬子」「死去」の箇所は読み取りにくく推測に基づく。名が三平ではなく市平であることの理由は未詳。

これまで手にした史料からわかることの概要を記す。

 享和三年(1803)、現津久見市彦ノ内生まれ。天保5年から5年間、肥後国深葉の官営事業所で椎茸栽培に従事。当時、同郷同僚であった徳蔵とともに出国。徳蔵は現津和野町横道に、三平は天保11年から現益田市匹見町広見河内に入り、椎茸栽培事業をはじめる。

 三平は嘉永5年に雪山でなくなる。かつて徳蔵と同じく深葉の事業所で同僚であった嘉吉が後年(明治中頃か)語ったことにより、以下のことが伝わっている。

《嘉永5年12月。大雪の降る夕刻、三平は茸山を下って里に出た。その帰路、平泊というところの二軒家の知人の家に立ち寄った。おりから吹雪はいよいよ激しくなったので、知人は泊まっていくようにすすめたが、三平は雪の中を山へ帰っていった。

 春を迎えた二軒家の人たちは、三平がおりてこないのを不審に思い、茸山をたずねた。そこには雪に埋もれて冷たくなっている三平の姿があった。三平は平泊の人たちによってねんごろに葬られた。匹見からは三平の死を知らせる者が郷里に飛んだが、三平の家では絶えて音信のなかったことであるので、かかわりなどをおそれて使いをひきとらせた。

 春、やがて、茸山には爆発的に春子が発生した。ひとびとは、いまさらながら、三平の茸づくりに驚嘆した。それからこの地方は椎茸の栽培地として知られるようになった。そして後年、三平の遺徳をたたえ、供養塔を建て、三平祭りを営んでいるという》※1、※2などによる

 また、大分県津久見市長泉寺境内にある椎茸碑の中には、次の一文がある。

《往昔、天保の頃、津久見の先覚者彦之内区三平、西之内区徳蔵、嘉吉、平九郎、久吉等の椎茸栽培業研修に端を発し、三平、徳蔵は石見へ出向、椎茸栽培業を経営す。是中国に於ける専門事業者の始祖なり》

 三平が椎茸栽培を手がけていた山はどこにあったのか。墓のあるそばだろうか。墓の世話人には廣見河内村とあるので、廣見河内のどこかの山だろうか。ところで、豊後に残る記録には、平泊の人たちによって葬られたとある。
 匹見在住で地元の民俗に詳しい渡邊友千代さんによれば「小原集落の平溜(ひらだまり)というところに墓があったそうです。現在は、そこには人が住んでいませんが、出身者が匹見支所の近くに移動させたとのこと」(田代信行さん取材による)
 そして、平溜は廣見河内とはずいぶんと離れているまったく別の集落である。
 未詳なる三平のことを知る手がかりは、ここらあたりにあるのだろう。 

 三平、徳蔵はいわばパイオニアであるが、明治に入ると数百人の茸師が豊後から石見に入ったものと思われる。大庭良美『石見日原聞書』※3には明治9年生まれの薬師寺惣吉の話が詳細に記されている。惣吉が豊後から柿木村椛谷に入ったのは明治26年。当時はまだ植菌でなく鉈目を入れて胞子の活着を得る方法が主であった。

国東治兵衛の椎茸栽培はあったのか

 先にあげた顕彰碑に「三平、徳蔵は石見へ出向、椎茸栽培業を経営す。是中国に於ける専門事業者の始祖なり」とあるように、大分の椎茸栽培顕彰会などでは、三平と徳蔵が石見に入った天保11年をその魁としている。

 しかし、もっと早い時期、石見地方で椎茸栽培が事業的に行われていたことを、短文であるが、載せているものがある。それは「紙漉重宝記」を著し藺草栽培による畳表を遠田表として全国的特産品として育てた国東治兵衛の功績としてである。時代は三平が石見に入った天保年間より五十年ほどもさかのぼる寛永年間以前のことである。

 千葉徳爾は、『西石見の民俗』※4所収の「土地利用の展開」のなかで、西石見の林産物としてナバ(椎茸)が多いことをあげ、次のように記している。

「記録によれば、豊後から益田に移住した国東治兵衛が、畳表と共に移入してひろめたとある。しかし、この地方全般にひろまったのは明治中期からである」(P.35)

 ここでいう「記録」がなんなのかは、一見わからない。「豊後から益田に移住」したのは治兵衛の先祖であって本人ではないので、同じ誤りかそう誤読させやすい記述となっている史料なのか。ただ参照したもののひとつが矢富熊一郎『益田町史』であることは、巻末史料にもあることから確かだろう。※5 以下にひく。

「国東治兵衛の郷里は、(益田町の)隣村遠田村である。…(中略)…彼が晩年に当る寛政十年、紙問屋として郷里に働いたことは、彼の著「紙漉重宝記」に依って知られ、藩主松平周防守から抜擢されて、「間仕事取調係」に委嘱されたことは、松平家古文書によって知られる。……中略……領内産業奨励の事務を托せられるや、畳表は勿論のこと、山地帯美濃郡奥部地方には、楮を栽植させて紙漉の事業を奨め又椎茸の栽培を徹底させて、間仕事たる副業方面の、向上発達に至大な貢献を与えた。」(P.427)

 ますますわからなくなりそうだが、そうではない。国東治兵衛と三平、このふたりはどこかでつながるはずである。椎茸は当時にあって重要な商品であり、そこに商人の介在が必ずあったはず。国東治兵衛は豊後商人とのつながりもあり、畳表はいわゆる北前船、廻船問屋を通じて東北から日本海を通り下関を通り瀬戸内海を大阪まで行き交っていたのである。
 この航路と豊後の茸師が少なからぬつながりを持つであろうことは、島根県内において、石見に続いて大分の茸師が入った地が隠岐島であることからも、伺える。
 山と海をつなぎ、二百年前と今をつなぐ物語でもある。
 その、つながりを求めて、この渉猟はしばらくつづく。国東治兵衛については、項を改めつつ並行して追っていくことになろう。
 

参照史料
※1 青木繁,1966『豊後の茸師―シイタケづくり名人記』富民協会
※2 源兵衛翁顕彰事業発起人会,1978『大分の茸山師』;大分県立図書館蔵
※3 大庭良美,1974『石見日原聞書』未来社
※4 和歌森太郎 編,1962『西石見の民俗』吉川弘文館
※5 矢富熊一郎,1952『益田町史,第1巻』益田公民館…第2巻だったかもしれない

その他参考史料
佐藤成裕,寛政8『温故斉五瑞篇』
伊藤達次郎,1952「椎茸栽培の史的考察」;日本林學會誌/34巻・9号
沖本常吉編,1964『日原町史 上巻』『日原町史 下巻』日原町教育委員会
牛尾三千夫,昭和52『美しい村―民俗採訪記』石見郷土研究懇話会
矢富熊一郎,1966『石見匹見民俗』島根郷土史学会

追記a.
過日、現地で墓碑銘を確認したところ。写真でしかわからなかったのとは違い、以下である。
「茸作 豊後國市平墓」
「嘉永五子年十二月廿日」
「世話人廣見河内村中」

日原の茸作、横道の山

今日は2020年の9月7日。大型の台風が接近することが予報され、学校や一部の官公庁が臨時に休日となるような日だった。家の外を整理し、この夏つくったばかりの庭木に支柱をたててもらったりして迎えた日だったが、幸いにも大きな風雨に見舞われることなく家も庭も無事であった。時折強風にガタガタと音がする以外は穏やかといってもいい日和ではあったが、不測に備えているため、どことなく落ち着かず、書類の整理やたまった経理を片付けていたりした。
 そんな中で、昨日来、茸師三平のことを調べていた。手元の資料では行き詰まり、新たに見るべき資料をあげるのと、匹見・日原方面への取材計画を練りながら、大庭良美さんの『石見日原聞書』を読み直していた。調べごとの備忘としてここに記しておく。

2年前の2018年8月に、宮本常一『山と日本人』を紐解きながら、巨木が眠る深山の木々を「切れるわけがない」と、おそらくはふたつの意味で口にしていた日原や吉賀の地の人らの声を思い出したのだ。(本の記録〜2018年8月)。 直接に耳にしたわけではない。祖父やその父たちが言っていたその語りを思いとともに口にすることができた人たち数人が「あぁそうだ」「そう言っていた」とうなずきあうその場に私も居合わせていたに過ぎない。益田での「森聞き」上映会(2012年1月)でのことだ。つい1年前のことのように思い出せる。8年ごしの宿題なのかもしれない。

さて、以下に「石見日原聞書」から「きのこ山師」の項をひきながら、注釈を加えていきたい。随時加筆するものとして。

◆きのこ山師より
 私は大分県の豊後のもので、明治九年生まれ、今年八七になります。

 滝元の薬師寺惣吉さんの語りである。豊後の茸師三平は享和3年に生まれ、嘉永5年に没しているから、その曾孫くらいの世代だろうか。母の話がこれに続けて出てくるのだが、そうしたことが存外に重要だと思われるのだ。

私はナバツクリで、島根県へはじめて来たのは十八の年でありました。柿木の椛谷(かばたん)のしもの地蔵さんのおんなはる溢(えき)で、そこは山奥で人をあんまり見たことがないから、子どもがナバツクリを見て、キノコヤマシが人間を見たようなチンコを出して小便しとったというた。

 溢(えき)は、小さな谷を意味するこの地方の方言である。言葉に込められたものが私にはまだわからないが、注意して見ていきたい。えきは妻にきいてもわからないとのこと。意味だけではない感情のようなものがこうした語句にはついているものだ。それを感じてみたい(知りたい)。※1
 薬師寺惣吉さん(以下、惣吉と記載する)が島根に来たのは明治27年か。まだ江戸時代から続く村のあり方が残っている時代である。そのなかでも茸師という存在の目新しさを物語ってもいる。惣吉は椛谷で数年を過ごした後、日原へ入っていくのだが、当時、ほかにもたくさんの茸師が豊後から入ってきたようだ。
 別項の「椎茸(なば)」にはこうある。

 日露戦争よりも前、豊後からナバ作りがじょうに来よりました。あっちい、こっちい、広い山を買うてナバを作り込んで、山に小屋掛けをしておりました。冬は山番だけが残って、時期になると皆やって来ました。ナバは四尺に五尺くらいな箱に詰めて送りよりました。中にはここに落ち着いた人もおります。(横道 安見藤太郎83歳・昭35,3録)

 日露戦争は明治37〜38年だが、明治30年を過ぎたあたりから5年くらいがそのピークだったのではないか。惣吉はその中でも先駆的な位置にいたのではないかと推測する。このあたり、源兵衛翁顕彰事業発起人会編「大分の茸山師」で確かめてみたい。

 宮本常一が『山と日本人』で語っていた日原の奥のこと(本の記録〜2018年8月)だが、『石見日原聞書』のなかで、木こりが山で木を切るとき、その儀礼について語られているところを確かめることはできなかった。その木こりが岐阜からきていたということは、いくつか重なるものもある。
 たとえば「官林伐採」の項で、横道の吉松吉十さんがこう語っている。時代は明治35年に道路が横道につき、線路が41年〜42年についたその時代の話としてである。

 木挽きは主に岐阜の者が来てやり、木馬道は土佐の者がつけて出しをやりました。多い時には伐りと出しで三〇〇人くらいおりました。

 吉十さんは、道路がつく前、直営の伐採がはじまる前にも木だしがあったことを少しふれている。宮本が残している、日原の人はだれも伐ろうとしなかった木が切られていくその発端としての岐阜からきた木こりの伐採は、その頃の話になるのだろうか。
 同じく「官林伐採」の項で、下横道の大谷吉三郎さんは、よそものが大半であったことをこう語っている。

 山仕事をする者は何百人とおる、これに使うものはすべてトロであげました。仕事しは土佐から四国、広島県の山県郡の方の、よその者が主でありました。よそもんは六〇銭、七〇銭の仕事はせん。木出しは木馬でドバまで一日に一〇石も一五石も出す。木馬はあぶない仕事で年に二、三人は死にました。その頃は横道は仕事しがじょうに入って、祭りにはよそ者が喧嘩をする。年寄りなどは恐しうて行けんような有様でありました。

 よそものがたくさん山にやってくるのは、茸師もそうであったが、明治後期からはじまるこうした数百人規模のものは後にも先にもないものだろう。
 タタラも多いところでは百人をこえてはいただろうが、三百人ほどの大きなところが石見にあっただろうか。どうだろう。茸師集団も数十人くらいであったことが伺える。
 古くは小集団としての木地師、そして近世からのタタラ、茸師、近代の大規模伐採(なんと呼んだらいいのか)、これらに共通するものを意識しながら読み込みを進めていく。
 まずは、移動する集団であること、樹木の豊富な深山に入るものであること、のふたつ。

 移動性、そして樹木の生い茂る深山、ふたつともが近世すなわち室町後期から江戸時代にかけて失われ続けていったものであることをも確かめながら。すると、鹿足郡で最大の深山が横道にひろがっていたことがみえてくると思う。
 豊後の茸師、その中国地方への先駆者として津久見の人たちがあげるふたり、三平と徳蔵。三平は広見河内で、そして徳蔵は横道で茸山をはじめた。江戸時代も後期に入ると、ほとんどの山は草山になっている。江戸中期に描かれたと推されている石見国図をみてもはっきりしている。
 日原聞書を読み直していて、横道の南の深山(と思っていた)、安蔵寺山も火を放たれ、草山となっていたことを伺わせる聞書があり、驚いたのだった。

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(つづく)

※1「えき」その1…小学館『日本国語大辞典』には方言として3項ある。
1)中央の縦谷から左右に派生した小谷。支谷。《えき》島根県、広島県山県郡
2)谷。谷間。《えき》島根県、広島県、山口県阿武郡 《えきなか》島根県鹿足郡
3)へんぴな所。《えき》島根県
 『石見日原聞書』を読んでいて、「えき」という言葉を使うときには、自分がいる・いた・住んでいる場所を指すときに出るのではないか。「へんぴなところに住んでいて」というような。卑下や謙遜と似ているが違う何か。含み、深みのある言葉だと思うのだ。鹿足郡で用例のある「えきなか」という言葉をたどっていけば、もうすこしわかるかもしれない。2020/10/26
 
※1「えき」その2…篠原徹は、昭和48年(1973)「Ethnobotanyから見た山村生活」に、岡山県湯原村粟谷における植物名が、その利用(分類と伝承)と深く結びついてきたことを述べたあとで、山の地形名も区分もそうであると指摘しその具体をあげている。そのなかに谷について、サコとタニは水が常時流れている場かそうでないかという区分を示している。ほかの地形もあわせていくつかを拾ってみると、サコがタニの上部平坦地であるのに対し、エキはタニの下部平坦地であって常時水の流れていないところではないのかと、そう考えて今後見ていくとよいのではと思い追記する。
《ミヤマ(ブナ林を主とする落葉広葉樹林地)・タカツンゴ(山の頂上付近)・ソネ(尾根)・タワ(山の鞍部)・ソウリ(もと焼畑地帯で今は草刈場)・ズリ(崖など土壌が露出したところ)・シバヤマ(シバを採る山)・タニ(水の常時流れる谷)・サコ(水の常時流れていない谷の上部の平坦地)・ナル(山の斜面の平坦部)・ヒラ(山腹)・シロ(茸の生えそうな場所)・ホキ(渓流岸壁)・ウオキリ(魚が上れないような場所)・ジル(山の中の湿地)・サワ(谷の源頭部)・セト(谷で両側の山がせまって最も細くなった部分)・ハラ(原野)・ナメラ(谷で岸壁が露出して掘れないところ)・クボ(耕地)》2020/10/24

ヘミツルアズキの備忘録

一昨日あたりから、ヘミツルアズキを収穫しはじめている。熟したものから順次。天候次第だが、9月半ばくらいまでは続くと思う。気温が下がり秋の長雨にさらされると、鞘が腐るようになり虫の食われ方もひどくなり終わりを迎える。若い鞘を加熱して食すのであれば、10月初旬くらいまでは結実を続けるので、とれなくはなかったと思う。
庄内の山地で焼畑耕作の最終年に植えるのだと聞き、わけていただいた種子から継いできているものだ。ヘミとはfoolishの方言だと捉えていたが、違うようだ。「ヘミ」は蛇ともとれるが、ヤブデマリの和名としての「ヘミ」からきているのかもしれない。
もとはといえば、ほうっておいても、何もしなくても、すなわち頭をつかわなくてもできてしまうツルアズキという意味だと思いこんでいた。出雲地方でダラマメとかバカマメと呼ばれるエンドウ豆があり、そちらにひきずられていたのだ。それらは、たくさんできる、あきれたようにとれるという意味を含んでいる。そこには「感心」「驚き」をあらわすような、尋常ならざるもの(foolishがそうであるように)に向かったときの感情が入っているようだ。

ヘミツルアズキはそれらとは違う。なぜにヘミであったか。
・方言としての「ヘミ」をあたりなおす
・ヤブデマリがヘミと呼ばれた、そのヘミとは
・蛇をヘミとするときの用例をあたる
これら語義と同時に、ヘミツルアズキ、その特徴についてより知る必要がある。

ツルアズキとは称せられているが、マメの形状はアズキではなくササゲであり、植物学的分類はハタササゲ(Vigna unguiculata (L.) Walpers cv-gr. Biflora E. Westphal)である。ヤッコササゲともいう。ルーツはアフリカでありササゲの変種であったか。そのあたり記憶も曖昧ゆえ、訂正のための叩き台とする意図もあって、いまわかるところで備忘を録しつつ、追記を試みたい。

小学館の日本大百科全書から星川清親,2019の解説には、その由来についてこうある。

《栽培されているササゲ類中ではもっとも野生的なものとされ、ワイルド・カウピーwild cowpeaの名もある。原産地はアフリカで、タンガニーカ、キリマンジャロ山麓から、標高2000メートル地帯にまで野生種がある。中央アフリカで古代に栽培化され、いまは世界各地に伝播している。日本へは、中国から9世紀までには伝来していた》

野性的とされる理由はいくつかあるだろうが、ヘミツルアズキの種子をお譲りいただいたE先生が栽培者から聞いた話によると、(夏の)雑草に負けないということ。蔓が他の草に覆いかぶさるようにしてのびていくのだという。しかし、その特徴はハタササゲ本来の特徴ではなさそうだ。先の星川清親,2019には、《つるはほとんど伸びず》とある。ササゲ属(大角豆、白角豆)の品種は160ほどもあるようだが、鞘が短いものには蔓なしが多いようだ。10センチ程度のものは蔓なし矮性。10〜30センチには蔓なしと蔓ありと。すると、このハタササゲは品種群のなかでは境界的なものだと仮定できる。

農業生物資源ジーンバンクの「ハタササゲ」では、その起源についてこう記述。

ハタササゲ(Vigna unguiculata cultigroup Biflora)は,アフリカに起源し東南アジアに広がったササゲ (cultigroup Unguiculata)から,インドにおいて作り上げられた品種群であると考えられている (Ng,N.Q. and R.Marechal. 1985. Cowpea taxonomy, origin and germ plasm. In “Cowpea Research, Production and Utilization” eds.S.R.Singh and K.O.Rachie. pp.11-21. John Wiley & Sons Ltd.)。

同じくジーンバンクのそれより、分類と特徴について、ひいておく。

分類
ハタササゲはササゲ属(Vigna)ササゲ亜属(Vigna)に属する一年生のマメ科作物である。Verdcourt (1970) は,栽培種のササゲ類( V.unguiculata )を3つの亜種, subsp. unguiculata,,subsp. sesquipedalis , subsp. cylindlicaに分類した。その後,Marechal et al. (1978)は,Verdcourtが提案した3つの亜種は分類学上の単位として分けるほどの違いはなく,品種群として分類することを提案した。
彼らが提唱した栽培種ササゲ類の4つの品種群は,品種群 Unguiculata,品種群 Sesquipedalis,品種群 Bifloraおよび品種群 Textilis である。品種群 Unguiculataはアフリカで栽培化されたいわゆるササゲ,品種群 Sesquipedalisは東南アジアを中心に裁培され長い莢を野菜として利用するジュウロクササゲ,品種群 BifloraはVerdcourtの亜種cylindlicaにあたり小粒で莢の短いハタササゲ,品種群 Textilisは長い花梗から繊維をとるために北アフリカに裁培されていた品種群である。2n=22。
特徴
ハタササゲの葉はやや光沢があり,花は紫または白である。ハタササゲの花はササゲの花より小さい。
種子はササゲの種子より小さい。種子色は黒,褐,白赤など多様。莢長は7-13cmで他の品種群より短く上向きに着く。
染色体数 2n=22。

ヘミツルアズキ(ハタササゲ)については、品種群Bifloraに該当し、「小粒で鞘が短い」「花が紫または白」「種子はササゲより小さい」「莢長は7〜13cmで他の品種群より短く上向きにつく」というあたりを特徴としてあげている。このなかでは蔓のありなし、その長さについては記載がない。ほかをあたってみる必要がある。

・蔓の特徴について他のハタササゲではどうなのか
・ササゲのなかではどうなのか
栽培例など、まずは写真と資料で確かめてみるべき。

 さて、今年の栽培履歴をみてみよう。
播種時期が不詳だが、記録から
つるはほとんど伸びず、3小葉の葉の付けねに花序がつき、2あるいは3個の莢(さや)が物を捧(ささ)げる手のように、上向きにつく。類推するに、山畑には6月25日前後、庭のほうが同じか少しあとだったろう。以下数枚の写真はすべて山畑である。

◆山畑のヘミツルアズキ

0711P1310565
・7月11日の山畑。発芽とその後は順調だった。

0802・8月2日。蔓をのばしはじめる。

0809・8月9日。成長が加速。

0816P1310957・8月16日。開花。すでに結実しているものも多いので、初開花は5〜6日は前だろうか。

0823_P1320095・8月23日。実がしっかり太ってきた。この7日後あたりから収穫しはじめ。

IMGP8645・8月31日。収穫後3日のちに鞘から取り出した。

野老と道々のもの

P1310622 おそらく鬼野老(オニドコロ)だと思う。一昨日やっと見つけた。探しているときには見つからず、忘れた頃に、こんなところにあったのかと驚くのはいつものこと。そして、7月下旬の今頃が目立つということでもあろう。花をつけるのもこれからだ。
トコロを食べる会として、蔓延って困っているというところからは根こそぎ持ち去ることを申し出るべく、会の趣意を記してみようと思う。
鬼野老と書いてオニドコロ。令和2年現在、ウェブで散見するに、数年前の記事では青森、山形では、道の駅でも売られているとか。山陰ではまず見ないし、聞くこともない。出雲地方、石見地方での呼称については不明。出雲国産物帳を紐解いてもそれらしい記載はない。
トコロと名のつくものはいくつかある。
・アマドコロ(甘野老)
・ヤマアマドコロ(山甘野老)
・ウチワドコロ(団扇野老)
・カエデドコロ(楓野老)
・キクバドコロ(菊葉野老)
・ヒメドコロ(姫野老)
・タチドコロ(立野老)
が、通常、トコロといえば、オニドコロ(鬼野老)、すなわちヤマノイモ科のDioscorea tokoro Makinoをさす。いつのころからなのか。仮に江戸時代中期以降と見立て、その嚆矢を元禄時代とみてみよう。『本朝食艦』を著した人見必大とて、トコロという呼称の由来については不詳としている。漢名は山萆薢、生薬名は「萆薢(ヒカイ)」というのは誤用のようだが、よくあることで、気をつけたい。また、必大は野老の栽培も多いということにふれ、栽培したものの毒性についてふれている。言及こそないものの、山野の自生したものが用いやすいということか。さらに、栽培は食用ではなく、生薬にするためのものであったであろうと。さらに進めて、元禄の頃よりトコロを日常に食することが減っていったのだろうと、今は見ておこう。元禄の『本朝食艦』から五十年ほど時代をくだって弘化の『重訂本草綱目啓蒙』になると「味ニガク食フベカラズ」と記され、干して春盤の具(正月の供物)とすることや奥州、阿州では上巳の節句に用いるのだ等、文字の知識と儀礼に残るだけのものとなっていく。
僅かな文を手がかりに、時代を室町、鎌倉、平安にまで遡れば、いま少し違う風景も見えてくるようで、そうしたことからの臆見に過ぎないが、トコロを食べてみようという向きにはそれでも有用なのだ。
蛇足ながらの付言をふたつ。
日常の食とはいっても、嗜好食である(あった)ことは、野本寛一が『栃と餅』2005,岩波書店で記していることからも推し量れる。野本氏が口にしたその食味とあわせて平成15年3月2日に新潟県岩船郡山北町山熊田での出来事をその書からひいておこう。

《こうして仲間が集って手仕事をする時や、家族がイロリやストーブの回りに集まって団欒する時、煮あげて笊に盛ってあるトコロの皮を小刀や果物ナイフでむいて楽しみながら食べるのだという。ーーキヨ子さん(大正12年生まれ)は包丁で手際よく皮をむき、食べてみろと勧めてくれた。
色は薄い飴色に鬱金色を混ぜたような色である。口もとへ運んだ瞬間、微かな芳香が鼻孔を刺激した。口に入れて噛む。ねっちりとした歯応えがあってホロ苦い。苦いけれども口が涼しい。歯応え、舌ざわりは山芋を輪切りにして煮たものに近いがそれよりも弾力性がある。爽やかな香気がある。苦いが抵抗感は湧いてこない。》

山北町(村上市)は山形県鶴岡市と接し、むしろ山形であると、町の方から聞いたことがある。山北町の焼畑でつくられる赤カブは鶴岡市温海の温海カブと名称こそ違え、ものは同じであるようだ。そうしたこともこの話の糸のひとつ。食べてみるといえば、島根県内で毎年、口にしているところもある。美保神社の青柴垣神事。供物の中でも野老は重要なもので、當屋が供物であるトコロいもを海中で洗う「野老洗い」は欠かせない儀礼となっている。今現在どう調理されているか、野老はどこから取ってくるのか等、確かめるべきことも多い。山形地方から贖っているということを論文で見た記憶があるがすぐに取り出せないので勘違いかもしれない。この糸は、山陰は元来白カブを地カブとする地域なのだが、津田蕪をはじめ、米子蕪、飯島蕪と赤カブが沿岸地域に存在する(してきた)。その北の縁と、里芋・生姜・茗荷とつながる南の縁をつなげることに、意味はある。

もうひとつは、舞狂言の「野老」である。
幽霊となってさまよう鬼野老の霊を僧が供養するのだが、野老の精が延々とその身の上を語るところが主話となる。
能楽研究所が蔵しウェブ公開されている「天正狂言本」からその冒頭をひく。画像に朱で示したところ。

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《そもそも山深きところを
鋤鍬にて掘り起こされて、
三途の川にて振り濯がれて、
地獄の釜に投げ入れられて、
くらくらと煮ゆらかしていませるところを
慈悲深き釈尊(杓子) に救い(掬い)あげられ……》

続きも笑いをこらえるところなのだろうが、目をこらすべきは「山深きところ」。野老は山深いところだけにあるわけではない。これは舞狂言がそうであるように、この夢幻のなかで野老を食していたのも、それを供養しているのも、当時のいわゆる農民や僧ではなく網野善彦いうところの「道々のもの」であることを示している。漂泊するもの、だれにもどこにも属することなく、諸芸職工を懐に道の上に生を全うし歴史から消えていったもの。そうしたものの霊こそが慰められている。
野老は道々のものが、楽味とし、滋養としたのだろう。合歓木の花咲く夏の日、鮮やかに静かに葉を茂らせるその姿に夢想した。
さて、どこまでか、たどれるところまでそれを追い、食べてみよう、というのが、トコロを食べる会の趣意である。

令和2年夏の畑

◆6月6日
藪を払った淡竹林からようやく筍がちらほらと。掘り取ったあとがあったので、あの方が来られていたのかもしれない。たぶん1日には出始めていたのだろう。ここは奥のほうの藪を払って、雑木そして杉にからまる蔓の類を除いていく。そして親子でも入れる気持ちのよい森にしていくのだ。

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◆6月7日
山の畑のスペルト小麦。花をつけていた。春先に何者か(狸だろう)に根本のほうまで食われていたので、あきらめていた。先のほうをいたずらのように食われたのならまだしも、けっこうがっつりすべての株がやられていたのだった。春先でもあるし成長点がずいぶん下のほうだったのだろう。実入りが少ないが、これ、菜園畑とくらべるとまだまだ土に穀物を育てる力があるということ。火入れから2作目であること、前作はサツマイモということ、土がもともとよいこと、そうしたことなど、要因と相関を頭に入れておこう。
そうそう。ここの空いたところに大豆でもいいじゃないかと思ったのだけれど、日照がよくないので、きびしいね。

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◆6月14日
†. 消炭づくりとセリ汁
降雨で土はびっしょり。竹の葉も湿っている状態。数日前の降雨までは雨不足による渇水で取水制限が出されたばかりだった。なので、バリバリに竹の材は乾いていたはずで、そこにどの程度雨が浸透しているかによる。暫定の結論を先にいえば、思ったよりも燃えにくかった、ということ。4月に切った竹が多かったことと、切って2年たつような古い竹も多かったこと、などによろう。孟宗竹の山と淡竹の山、2箇所で焼いたのだが、淡竹のほうはさらに燃えにくかった。
燃えにくいと、消炭としてはいまひとつのものとなるのかもしらん。

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セリ汁は、余裕があればつくろうとしたが、余裕はうまれず、ただ、竹筒を切って、下ごしらえくらいまではできたので、いろいろと得るものもあった。次回へ。

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◆6月16日

†. 大豆の播種
種まき用にとっておいた(はずの)白大豆が見当たらない。冷蔵庫に、それ用かどうかは不明のもの80粒弱を発見、小豆とともに。小豆と黒大豆は中旬までには播種したかったが、起こしもできてないし、どうしようか。オリゼ畑はともかく、山畑は大変、な、はず。
→白大豆は6/21、山の畑に。約70粒。
*7月3日追記;山の畑、半分ほど発芽。遅め。

†. タカキビ
今年は多めにまこうと思いながら、できてない。山の菜園畑では、わずかながら蒔いたところにはエノコログサかメヒシバと思しきものが大量に芽吹いていた。見分けにくいが、いくつか発芽はしているようだ。のびはじめたら強いのだが、この小さいときにどうも生き残りにくいのではないか。苗にしておくものをつくっていなかったのが悔やまれる。が、遅くないかもしらんので、今日つくっておこう。
タカキビ×大麦入のご飯を炊いた。八分づきの米1合半とタカキビ×大麦が半合で、タカキビ多め。かなり粘りが出て、かたまってるところをほおばるとまるでもち米。うまいはうまい。5時間程度は水に浸けて、洗い直したものを入れているので、アクはある程度抜けているはずだが、この分量だとほとんど渋みを感じない。

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*6月19日追記:オリゼ畑に蒔いたものが発芽していた。1週間もたっていないはず。苗ポットに播種したのも同日。6月末までに発芽してうまく育てば、種子としては不全なれど食うには食えるものがいくつかできるのではと思う。
†. タマネギ
三日前がほぼ終日の豪雨、二日前の日曜日も時折豪雨となった日だが、すきをみてオリゼ畑にほってあった晩生のタマネギで薹立ちしたものを掘り上げておいた。そいつを昨日、調理してみた。中心部はたしかに多少すかした感じもあるが、ほぼ問題なく食べられる。もともと5センチほどの小さな玉だからさほど感じないだけなのかも。種子からやってみるのなら、畑においてあるものから種どりして9月には播種の予定。山の畑でもできんことはないし、連作できる野菜としてうまくいかしていきたい。
†. モチアワ
古い種子をダメ元で盛大にばらまいたりもしているが、どうやら無理なようだ。半端な量では鳥にぜんぶ食われるし、そこは難しい。ホンリーとの混植が鳥たちの突撃を回避できるかもしれないが、鳥も学習するので、どうだろう。種子がきれたこともあり今年から少々おやすみしよう。
†. 里芋(三刀屋在来)
山畑(菜園畑)の発芽がようやくといったところ。これから挽回できるかどうか。オリゼ畑は順調といえよう。
†. シロヒエ
山の菜園畑に蒔いたのは1回目が5月11日、2回目が6月2日。そして下の写真は1回目の発芽で5月24日。
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◆6月18日
†. スペルト小麦の刈取り
まだ青いのだが、稈は黄化しているものが9割方。夕方から雨の予報だったので、昼過ぎから刈り取るつもりでいた。ところが。朝4時半すぎだろうか、妻が「雨が降り始めたね」と。外をみるとたしかに降っている。慌てて着替えて、畑に出た。小ぶりだ。雨具はいらない。鋸鎌でせっせと切る。徒長気味に背をのばした稈はいつもの年よりやわらかい気がする。実の大きさも小さいのではないか。
つつじの横、庭のものも刈り取った。こちらは昨年よりもずいぶんと立派だ。そういえば、山のものも、食害にもかかわらず実のつきは悪くなかった。

◆6月23日
火入れ

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◆7月3日
†. アマランサス
昨年春焼き地にばら撒いたものは、大きくなっていないようだ。山畑のものは遅いのかもしれない。オリゼ畑のこぼれ種からのものは大きなものでは腰高くらい。3日前くらいに間引きと移植を行った。早いものではもう蕾部が頭頂から出始めている。

◆7月22日
†. アマランサス
6/23に山で火入れをした後、翌日にばら撒いたアマランサスがいつのまにかこんな状態。遅いのであるが、間引きをし柵をつくり暑い夏が長引けばそこそこ収穫ができそう。どうしたものか。

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◆8月9日
†. 白大豆
ようやくのびてきた。豆は暑くなってからののびしろが大きい。
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†. ヘミツルアズキ
畑ササゲも蔓をぐい〜んとのばしてからみはじめたところ。
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†. 白ヒエ
たいがいどこでも育つものだが、今年はよくない。種子をうまくとって次年度へのつなぎとする。
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令和2年春の畑

◆3/26の備忘
・キクイモ……キクイモをケタ地の盛土地に植えてきた。3週間ほども前だろうか、掘り上げたあと、埋め戻したものからは根が出ていた。ここは日当たりがいい。今日は23℃まで気温もあがった。ほかのものたちの播種をいそごう。
・裸麦……オリゼ畑のが出穂しきったのは10日ほど前だと思う。かなり早い。山畑のものはまだまだ。
・タケノコ……孟宗竹の初物。山畑、春の火入予定地でひとつほりあげた。
・山畑のスミレ……22日にはけっこう咲いていた。例年より14日〜21日ほどは早いと思う。

◆3/29の備忘
・苗……黒小町、かちわり、ブラックチェリー(トマト)を播種。苗土は春の火入予定地から3種くらいを採取したものと、土床のものをブレンド。また、珈琲豆とおからの堆肥(3週間おきのもので出来のよいやつ)も少々。土床には雑草の根がけっこう残っていたため、表面の種子をバーナーで焼くついでに、土の中もけっこう焼いた。ほかほかと暖かいものをポッドにつめて種を埋める。
・草とり……畑や庭やあちらこちらを少しずつ。

◆4/4の備忘
・ミツバチ……ニホンミツバチの待ち箱を牧場に設置。カラスザンショの木の下だが、ほんとに置いただけなので、風雨にさらされる前に足場をかためたり固定したりをしにいく。入ってくれるだろうか。幹を持ち出した。
・ウバユリ……牧場のそこここで葉を出しているのをみる。どこも大なり小なり伐開をしたところだ。潜在的にかなりの量が周辺地域にあったのではないか。いっぽうで、半日陰となり水が滲み出るような小さな谷状地が、近年次々となくなっていったということでもあるだろう。

◆4/7の庭など
・昨日。妻がいうところの「桜パトロール」にでかけた。徒歩で約2時間ほど木次を歩く。ソメイヨシノはこの春はとても長く花をつけていたが、この日から散り始め。アスファルトの道路を小さい子(花びら)がテクテクと歩いていくようだった。ほんとうに。秋葉山にはじめてあがってみた。大きなエドヒガンがステージの横に鎮座していて、推定樹齢は90年。まだまだ花を咲かせ続けそうな勢いのある姿をおがむことができた。
・鉢の底から何度も根を降ろしていた薔薇を土におろした。ついでに炭穴を通路ぞいに3箇所ほどつくっておいた。
・先週の霜が最後ではなかろうか。里芋をどこに植えようかと思っていたが、そうか、通路におくのもいいだろうと。目印に竹の枝をさしておけばよい。
・人参の手入れ(草抜き)。ビーツはまだのびてこない。畑にハコベらしきものを見たが、どうだろう。土筆が姿を消してスギナが目立つようになった。

◆5/24の山畑より
ずいぶんと間があいてしまった。のちほど加筆していきたい。
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令和2年冬の畑

◆2020/2/5の仕事
・黒大豆…昨日、昨年から干したままの黒大豆を脱穀し終えた。種取り用に以前にとっていたものとあわせても350gほどだろうか。半分以上が虫に食われたり腐ったりしていた。もともと収穫が遅かったこともあろうが、播種時期がずれていたのだと思う。7月にかかっていたのではなかったか。
順調に収穫できていたとしたら700gだろうか。裏のオリゼ畑だけで栽培したのだからそんなものかとも思うが、はてさて。家庭菜園とはいえ2kgはほしいものだ。場所がないのだけれど。
黒大豆は赤名黒姫丸。白大豆とくらべて栽培はしにくい。大粒だからか。自然栽培農家から買っていたものを種にしたものだからそうそう虫やらにやられることもないだろうが。一度山畑で試してみるのがいいだろう。場所さえ確保できれば。
そして。
山畑の白大豆もそうだが、今年は基本、昨年より早めの播種としよう。昨年の播種日を確認しながら手帳にのちほど書き込むとして。
さて、希少な黒豆は妻が煮豆にしてくれるという。300gに対して水1リットル、きび糖200g、しょうゆ大さじ1。沸騰までさせずとも熱を加えてきび糖を溶かすようにして、火を切り一晩おいておく。甘み醤油を豆が吸ったところで煮る、というレシピである。明日が楽しみ。
・山の竹切り…この冬はじめての積雪かと期待?しつつの山仕事。昼にはみぞれと雨が交互に降るような空模様で、風も冷たく、いつもなら行きたくないような気候であるが、今日はさにあらず。理由。もし雪が積もるようなら、燃やしやすくなるから。延焼のリスク、すなわち山火事へと至るような事態は大幅に低下する冬ではあるが、0.00001くらいにまで下がるには積雪が必要だ。数十センチレベルなら、まあどこでも大丈夫。防火のための運搬なしで、積んであるところにそのまま火を入れればいい。この冬はそんな積雪はのぞむべくもないが、うっすら数センチでもいい。それなら可能なところを低労力、すなわちひとりでも用意できる。
そう、チャンスなのだ。この寒さと雪は。そうと思えば、気合は入る。気温は3℃前後かと思うが、約3時間ほど積んである竹を切ったり、移動したり、投げたりを繰り返した。多少汗ばむくらいで、動くには快適な気温だった。

◆2020/2/26の雑想
・消し炭づくり

あっという間に冬が終わった。この項、のちほど加筆。

令和元年秋冬の畑其の一

◆2019/10/17の仕事
・スペルト小麦…山畑と家畑にスペルト小麦を播種。昨年より9日ほど早いのだと思う。ここ2年ほど梅雨にかかって雨でカビさせることが多かった。さてどうなりますか。山畑については、春先牛に柵入されてきれいに食われてしまった。一昨年はこれも春先、鹿なのか猪なのか何者かに食われた。春先、ほかの草がいまだのびない中、冬を越して青々と背をのばしたムギは、草食動物たちにとってはたいそう魅力的なのだろう。
今年は、その山畑のどこに植えるかはそれなりに思案した。どうなりますか。
来週にはスペルト小麦をもう少々と、大麦の播種に入る。大豆の収穫もそろそろか。
・タカキビ…雨風で実りきる前に2本を収穫。まだ数本残っているが、本当に種をとれるかどうかぐらいの収穫となって、これまででいちばんの「不作」である。来年は苗植えもあわせていくことと、ある程度まとまった量を植えないと倒伏対策も含めてうまくいかんものだと改めて実感した年だった。昨年の種が全体として未熟だったことが要因として大きかった思う。発芽率が低かったその要因としてだ。
・トマト(サンティオ)…山畑のものは終わりか。そのまま放置しようと思うが、苗を1ヶ月は前倒しで育てないと、実が入るまでに時間がかかりすぎる。山畑は条件が過酷なのでなおさら。
・陸稲…どうだろう。ネリカの方はあと2〜3週間は熟すのにかかりそうだが。11月初旬にとれるものだけでも穂苅しようかというそんな具合。イセヒカリは一度枯れたものがなんとかいくらかはみのりをもっているので、日曜日に穂苅してみようと思う。ほんのわずかではあるが。
・パープルサルシファイ…今週末ひきあげてみよう
・キクイモ……今週末、ためしぼりしてみよう

◆2019/10/21の仕事
晴天の予報だったが、仰ぎ見る空に広がるのはうっすらとした雲の膜であって、陽光は地に届かず。されど気温はあがっているようで、心地よいあたたかさだ。少々動いても汗をかくほどではなく、畑仕事に、残った草刈りに身体を動かすには絶好の日和ではあるものの、如何せんほかにやらねばならぬ宿題が多すぎる。下水桶を掃除する予定だけはずらせないので、穴掘りのための整備ということで畑にスコップと鍬をいれる。まずは落葉を積んでいた溝の補修から。積んでから1年ほどではあるが、表層の葉も腐食がかなり進んでいて、腐葉土というよりは土と呼んだほうがふさわしい態となっている。春収穫のジャガイモの後、なにも植えることのなかった場所へ、オカラと珈琲豆カス由来の堆肥などをすき込んだあと、その上へ土をあげた。さらに隣地との境界であり、セメント板が打ち込まれているその下へヨシクズを投入してみた。
そして残っている夏野菜を収穫。ナスはおそらく最後のひとつ。ブラジルミニ(トマト)は仰山、サンティオはひとつ。甘唐辛子が数本。
畑に残っているものはほかに大豆、小豆、桜豆、そして里芋が一株。桜豆は今年も不出来で種子とりのために慎重に見守っているところ。つまりは間違ってツルを切ったりしないこと。
大豆の葉の一部が黄変しはじめているが、取り入れはまだ先か。アマランサスの穂が乾いて茶に変わった。ここ3〜4日の変化。明後日に脱穀の予定。
最高気温20℃か。

◆2019/10/27の仕事
スペルト小麦の播種2回目。すでに芽を出して1週間はたつであろう畝のつづきに蒔く。2日くらいには発芽するだろう。あまったものをミニトマトの畝の端と、小豆・畑ササゲを植えていたツツジの横へ。トマトの畝はツルの茎葉に覆われて湿っぽく肥えているように感じられたが、落下した果実も多く、それを食するナメクジが多い。あまりながく放置するのも考えものだ。果実はふみつぶして早く分解するなり乾燥させてしまったほうがよいと思われる。

数年来の懸案だった金木犀の頂部剪定をやった。徒長枝が出てくるだろうから、頂部についてはこまめに剪定を繰り返して整えていく。太い枝をどうするかだが、トマトなど次年度の蔓性作物の支柱に仕立てておこう。

・甘唐辛子はまだ採れる。3本ほどを摘み取ったが、20℃を超える最高気温が続けば来週にまだ5〜6本はいけそうだ。
・小豆は黄変した鞘はこまめにとっていて、もう1週間くらい先に土からすべてあげようかという頃合い。大豆も1週間後から順次あげはじめたいところ。

今日の最高気温は20℃。晴れときどき曇り。
大麦の脱穀準備と種子も準備もできたので、明日播種の予定である。

◆2019/10/29の仕事
オリゼ畑の北端に裸麦の畝を整えて播種。大豆刈り取りのあとにと思っていたがかなわず。もう少し後、今週日曜日に刈り取ってそこに植えるか。その前に小豆は刈り取れると思うので、畝を整えつつそちらへも。
スペルト小麦はもう少し植えておきたいのだが、ナスの畝の端にだけでもどうか。明日の15時過ぎに温水へつけよう。
ビーツを播種する時間がなくなった。ほとんどばらまくようにして畝の隙間におく。

今日の最高気温は21℃。晴れときどき曇り。

◆2019/10/30の仕事
山の紅葉具合をみていて、落葉を集めるのはもっと先かと思っていたがさにあらず。いつもの場所を久しぶりに通ってみれば、かなりの堆積があって、遅きに失するほど。明日にでも片付けられてもおかしくないありさまだったので、慌てて軽トラ1杯弱ほどを持ち帰った。
畑の「穴」と畝間におくが、今年は例年以上にかき集めておきたい。今年から、「穴」もそうだが、分解して土になりつつあるところからは苗の土など「使う」ことがふえたから。

昨日のつづき裸麦の播種は小豆を刈り取ってその跡に。思うところあって、ぼかしなどもいれて畝立てした。小豆こそそこそこできたが、ほかの作物、陸稲、裸麦、花オクラなど、いずれもその場所は生育がよくないのだ。理由はいくつか考えられるが、いくつかの経過をへて今回はうまくできるんじゃないかな。よくみていきたい。

今日の最高気温は20℃。晴れ。

◆2019/10/31の仕事
山の畑へ。
今年の陸稲は失敗だった。火入れ後の急傾斜地で礫土。水が不足し夏枯れを起こしやく、枯れないまでも生育が著しくにぶった。直播と苗植えとでは一長一短。直播きは初期の生育はとても遅く、同時期の苗植えと比べて明らかに見劣りしたものだが、後半追い上げてほとんどかわらないほどにはなった。ただそれも土質と日照、風向き、今年の雨量などにもよるのでなんともいえない。
ネリカとイセヒカリとでは、もうネリカはとくにここ山陰地方山間部には向かないのではと思ってしまう。感情的ですとも。ややですが。いったいあれやこれやの苦労はなんだったのかと思うではないですか。収穫ゼロとなりそうである。かき集めればカップ半分ほどの籾はひょっとしたらとれるかもという程度。長稈ゆえ倒伏しやすいこと、出穂まで日数がかかることなどかな。ただ日照りに強いことは確か。イセヒカリが一度ほぼ枯れてしまったときにもまったく青々としていた。
イセヒカリは高アミロース米だというがどの程度であったか。ともかくもイセヒカリは継続してとりくみたい。土地をどこにという問題がまた悩ましいのだけれど。
さて、春焼き地のサツマイモ跡地に播種したスペルト小麦、日陰にしてはよく育っている。
アマランサス2株ほどを持ち帰り。2株とはいえ刈入れはこれが最後。なぜそこにはえてきたのかいまだにわからないもの。考えられることは、モチアワかヒエの種子にまぎれていたものが、こぼれたということくらい。
カブが生き残っていればいくつか持ち帰ろうと思っていたが、ほぼ全滅。ひどい有様だった。カブラハバチがほぼ食い尽くしている。焼畑そのものは決して循環型ではないことの証左であろう。もっとも焼畑の本義はSHIFTING、すなわち移動性であり、連作は忌避されているのだから、さもありなん。
牛舎そばの畑ではキクイモを試し堀り。こちらはよくできていてほっと一安心。11月下旬から掘り出しはじめようと思う。また黄変しはじめている大豆を5株程度刈り取った。
大豆の横地にほんの気持ちばかりの畝立てをして裸麦を播種。つづきは次回。
最高気温21℃。晴れ。

◆2019/11/1の仕事
落葉掻込3日目。今日は2回運びこんだ。あわせて5回ほど畑に入れたことになる。いつもの場所からだとあと5回は運べるだろう。山の畑にも2回程度は持ち込みたい。そして山の畑からは笹をオリゼ畑に持ち込むか。ついでに書いておけば、2年来の懸案、タケノコ林(としていかす場所)に堆肥を持ち込む実験ができるかな。少しでもいいからね。
オリゼ畑では、スペルト小麦の播種。ナスの跡地へ。枯草など乱暴にすき込んでしまったので、ネギ苗が買えれば植えておきたい。
最高気温22℃。晴れときどき曇り。

◆2019/11/2〜3の仕事
こまごまとしたことをやっているのだが、よく思い出せない。屋根に庭のシマトネリコの枝がかかっていたので、いくらか剪定した。ユーカリも同様。ミモザの隣でからみあっているジューンベリーも少々剪定。暖かい日が続いたからか、バラの葉がまた食われ始めている。目立ったところはばっさり切って木酢をスプレー。
トマトはいよいよ最後か。これで終わりという最後の収穫を3日に。明日以降で片付けようと思う。
一昨日あたりからスペルト小麦2回目播種(10月27日)ぶんが次々発芽。ほぼ予想通り。

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大麦の発芽は今週末、金曜日あたりか。
最高気温21℃(3日)。晴れ。

◆2019/11/6の仕事
毎日、少しずつ何かをやってはいます。
大麦の発芽は11月6日でした。想定より早いです。暖かい日が続いているからか。いいのか悪いのか。わからないですが、この暖かい晩秋で干し柿をつくる農家は大打撃だとききました。例年の2割ほどの出来だとも。このような気候変動はますます波を荒くしていくのでしょう。精一杯に謙虚にこの流れを観ていきたいと思っています。遊び=ゆとりを忘れずに。
畑について明日以降ですが、大麦の播種をもう少し、そして早生のタマネギ苗を植えていこうと思います。堆肥と米ぬかを草と一緒にすき込もうとも思いましたが、猪が水はけの悪いところを”耕起”してまわっているので、播種地とは少し離れた場所に施しつつ、冬に熟成が進むように。また、溝を掘って、炭素資材を投入するかと。
さて、今日は数日ぶりに落葉をかき集めてきました。まだまだとれますが、数日前の雨、そう11月5日の雨でかなり重たくなっています。

山では大麦とスペルト小麦を、少しばかり刈り取った大豆の跡地へ。春焼地からはタカキビを3本ほどか持ち帰りました。タカキビはこれが最後の収穫。ムカゴも山のあちらこちらで少々。

◆2019/11/10の仕事
最後に裏の畑にまいたスペルト小麦が発芽していた。11月1日にナスの跡地に播種したぶん。今年は秋が暖かく、最初に蒔いたものは育ちすぎで、冬を越せるかが心配なほどなので、遅すぎということはないのでは、と、思う。大麦をいくつかいたずらまじりに庭の隅、ちょうどスペルト小麦をまいたツツジの隣ににまいてみようかどうしようかといったところ。

明日、小雨の予報が出ているので、落葉のかきこみ2往復ぶん。まだとれると思う。溝にたまったぶんはこれからだが、それらは畑地ではなく、脇の剪定枝などを積んでいるところに投入していくものとしてとってある。溝のものはすでに堆積し固まっているものだと避けたほうがよいかな。今日とってきた一杯分はそうだった。
落ち葉は畝間にいれるものは下に分解しにくいモロコシやアマランサスの茎をいれてしばらくおいているところへ。あるいは割竹(古いもの)など。通気性・通水性の改善のためのものとして。おそれるのは、ふかふかの葉が分解がすすんでかたまりになり、そこで嫌気的分解がすすむこと。ともかくゆっくりと好気性中心で分解してくれればよいのだ。……と考えているので、ちょっと積みすぎのところへはシートかぶせようかどうしようかと思う。いまのうちなら底のほうへ向かってカヤ、笹の茎などをはさみこんでおくか。

タマネギの苗がいないに出ていたので、買ってきた。もみじを50にソニックを50。ソニック20、もみじ10を裏の畑に。残りを山の畑に植える予定。3割できれば上出来とするアプローチで。山畑については土のほぐれている区画に、米ぬかと藁で手当しつつ。裏畑にも米ぬかと藁か。藁が足りなければ、山畑についてはカヤか雑草枯草にて。
3年ほど(のはず)吊るしていたモチアワを今年はすべて片付ける予定で、まずひとふさぶんを脱穀。洗濯板でごしごしとやって、手箕で風選少々。もうひとふさやったところで、ほかのものとあわせて唐箕にかけようと思う。
今日の最高気温は18℃。だんだん秋らしく、そして冬がちかづいてきた。

◆2019/11/11の雑想
今日は雨となり、外出もしたので、タマネギ苗はそのまま。今晩から水につけておこう。明日の山畑は寄る時間がないかもしらん。が、寄れるようにはしておこう。最高気温17℃、最低気温13℃。

◆2019/11/13の仕事
タマネギ苗を裏の畑に植える。早生のソニックじを黒大豆とアマランサスのいた畝に35ほど。晩生のもみじを日当たりのもっとも悪いナスの奥手へ畝立てをして25ほど。畝立は地下茎をとりぞくためということもあり。苧麻、茅、ドクダミがからみあっていたところだが、ドクダミはなんどか取り除いたことでかなり少なくなっていた。苧麻の太い根がごろごろとあったのとドクダミが少々。15センチも掘れば山砂の層にあたる。この場所は夏の盛でも水をたっぷりと含んでいるところなので、里芋には好適なのだが、同様の理由でタマネギにもよいのかもしらんと思いつつ試してみるのだ。
山砂が出てきたところで、不朽しにくい剪定枝で1年くらい放置してあったものや同じく竹の稈の小さなものなどを敷く、そしてその上に落葉を踏み固めれば2センチ程度の厚みでのせ、米糠を軽くふったあと、500倍程度に希釈した竹酢液をジョウロでそそぐ。掘った土を戻して少し踏み固めて終了。この畝にはタマネギ苗のもみじを13センチ間隔で2列植えていった。列の真ん中には稲わらを少々ならべ、ところどころにおさえるように土をのせ、米糠をほんの少しまぶす。最後に希釈竹酢液をジョウロでそそいでおいた。
早生のソニックを植えた畝の場合、列の間には珈琲カスとオカラの堆肥を少々溝においたうえに稲藁、そして米糠という具合の処置をほどこす。この畝の仕上げについては日が暮れて暗くなりすぎたので明日か明後日に。
うまく根がついてくれればよいのだが、3〜4日ほど遅れてしまったので、どうだろうか。多少気温があがったほうがよいのだろうが、明日は10℃ちょいまでしかあがらず、明後日からは18℃前後までいく日が数日はつづきそうだ。10日ほどは要観察である。
さて、残りの苗は山にもっていく予定だったが、裏の畑になんとかおけないかなあとも思う。明日の天候などみて決めよう。
晴れのち曇り。最高気温18℃。最低気温6℃。

◆2019/11/15の仕事
午後からは山の畑へ行くつもりがかなわず。裏の畑で30分ばかり畝をたてるのみとなった。擁壁がわの側溝脇に。明日朝にタマネギを植える予定。
晴れ。朝、軽トラのフロントガラスには氷が。この秋初。最高気温15℃。最低気温3℃。

◆2019/11/16の仕事
11時30分〜16時まで山仕事。
白大豆の収穫、タマネギの苗植えをして終わるつもりだったが、行ってみたら大豆がない!?……………。いや、よくみたらすべてなぎ倒されていて、殻が散乱している。どうやら食われたようだとわかるのにしばらく時間がかかった。おそらくタヌキかなにかだろう。イノシシではない。”うまくいかない”ということは感情と思考をぐるぐるとかき混ぜてくれる。いったいお前は何をやってきたのだ、何をやっているのだ、これからどうするのだ。あきらめてこんなことはもうやめにするのかどうか。つづけるとすればどうこれから処していくのかこの事態に。などというのはほんの端緒であって、まあいろいろ。

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畝をたててみたり、散乱した殻を寄せ集めてみたり、タマネギの苗を植えてみたり、ときにぼーっとまわりの景色を眺めてみたり、するとずいぶん風が強く吹いているようだが、この畑はそうした風を受けることはなく、晩秋のひざしもあってぽかぽかと暖かく長閑だということに気づく。向かいの小山の林はざわざわごうごうと揺れていた。

豆・麦畑の手入れ、タマネギ苗植え、ナラヤマ観察等(晴れ/↑19℃↓6℃)

◆2019/11/20の雑想
横田の山で、横田中みーもスクール・林業体験のお手伝い。伐倒したヒノキのそばに炭窯の跡がありました。かつて雑木の山だったのでしょう。クヌギとシラカシの実生から大きくなったものが、やせた木とはいえポツポツと、ヒノキの40年生(?)くらいの林の中にありました。表層から少し下は真砂と粘土っぽい赤の中間をとったような土。赤〜〜土というんだとか(失念)。
帰りにガマズミ(カメガラ)を採りました。時期が遅いこともあるのでしょうが、ものによってはちょうどいい熟し加減というものも。
曇り時々晴れで最高気温が10℃くらいか。最低は4℃。

◆2019/11/30の仕事
2時間ばかり竹を切り、畑の柵に使う竿を整えた。
竹が硬い。切り出そうとしたものは稈が黄変しかかっているもので、春には枯れ始めるようなものばかりだったこともある。もうひとつはチェーンソーの目立ての不十分さ。目立て要再学習、です。
畑の柵は応急処置として壊れたところに竹竿をたてかけて軽くしばったのみ。パープルサルシファイを次回にはいくつか引き上げよう。
晴れ時々曇りで、最高気温13℃、最低は朝方で3℃。

◆2019/12/1の仕事
午後の3時半から暗くてものがほぼ見えなった5時半まで、オリゼ畑の整理をいろいろと。気がつけば柿の葉はすべて落ちていて、今年のびた薄茶色の枝が、寒々とした宙に輪郭をあらわにしていた。妻にきけば、もうとっくに落ちていたよと。テーブルセッティングに色づいた柿の葉を使ったのはいつだったろうか。過ぎゆく月日と記憶の時間感覚があっていないのだろう。どれだけ、目の前にあるものごとを観ていないか。この愚鈍さは恐るるに足るものだ。
大豆の取り残しが一株ほどあったものを引き上げた。まだ青い鞘も残っているのだが、もう実が熟すこともあるまい。干してある大豆のさやをふってみればカラカラといい音がする。来週には脱穀しよう。もう年の瀬だ。
年越しまでには、干してあるものは脱穀をすませ、すっきりと片付けられれればいいな。やれるところまでやるために、ここに立つ時間をつくればいい。
曇りで、最高気温は15℃、最低気温は5℃。

◆2019/12/16の仕事
東京行きや腰を痛めたこともあり、山ふくめて畑仕事を休んでいたのだが、昨日からぼちぼち再開。今朝、本格的な霜。これまでもなくはなかったのだろうが、バリバリに凍ったのは初だと思う。二株ほどあった里芋を掘り上げた。小さかったのだが、それなりの量はある。玉ねぎの条間に藁と米ぬかをしいたりするなど、細かいことをあれこれ。落葉が足りない。もう少し持って帰ろうと思う。が、落葉だけではいかんので、牧場寄って笹と茅を少々。ヨシの断裁したものでもいいかもしれない。ならば、ひょいと積むだけなので、よい。昨日、ようやく挿し木の苗を5つ移した。バリバリに固まっていて、根を切ったものもあり、やや後悔。「これまでの苦労が……」というやつなのだが、苦労とは忘れるものだ。だから「やや」なのだが。来春の芽吹きを希う。
久しぶりの快晴。最高気温は13℃、最低気温−1℃。風も感じるかどうかの微風で洗濯物がよく乾いた。

◆2019/12/30の仕事
山仕事。少しばかり竹を切ったり、動かしたりをした。来年春の火入れをどうするか、どこにどれだけ積むか、伐倒する箇所はどうか、種々かんがえながら、久しぶりに動かす身体の具合を確かめながら。小一時間くらいであったろうか。かどまつにしてみようかと細く長くまだ青い稈の竹を二本。軽トラをはみ出す部分は折り曲げるようにして、ゆっくり帰った。

本の記録〜2019年9月14日

県立図書館にて借りる。
†1. 宮田登ほか 『日本民俗文化大系第9巻 暦と祭事―日本人の季節感覚』(昭和59,小学館)
†2. 高取正男,昭和47『民俗のこころ』(朝日新聞社)
†3. 藤木久志,2008『戦う村の民俗を行く』(朝日新聞出版)
†4. 赤江達也,2017『矢内原忠雄ー戦争と知識人の運命』(岩波新書)
†5. 塚本学,福田アジオ編,平成5『日本歴史民俗論集第4巻 村の生活文化』(吉川弘文館)
†6. 山折哲雄,宮田登編,平成6『日本歴史民俗論集第8巻 漂白の民俗文化』(吉川弘文館)

†2.†4.をのぞき、すべて年取りカブの参考文献として。