スフィンクスの謎かけに応えて〜とある谷のmicrostoria試論

寺子屋あわい堂2024  巻の一 あるいは序

終了しました。ありがとうございました。次回、巻の二のご案内はこちら(3/15「かたり」の始原へ)

◉主 催:あわい堂&樟舎
◉日 時:2024年1月26日(金)
◉開 場…18:30〜
◉トーク…19:00〜21:30頃(21時以降はカフェタイムに入りつつ、質疑を受けたトークは続きます。21時以降の退場はご自由に)、22時クローズ。
◉場 所:あわい堂(島根県出雲市大津町1226-1)
◉参加費:2,300円(軽食、1ドリンクセット含)。前日・当日のキャンセルは全額をお支払いください。当日申込は空席あれば2,800円にて受付
◉定 員:14名
◉申 込:定員に達しましたので、申込を締め切りました。(1/25)
お問い合わせも含め、下のフォームからお名前とご連絡先をお知らせください。※のついた欄は必須です。返信のメールをもって受付とさせていただきます。
また、お車でお越しの方が大半かと思いますが、その旨ボックスにチェックをお願いします。駐車位置と場所について、事前に調整相談させていただきます。
◉その他:中継ライブを有料配信予定→中止としました。録画を利用した、あるいは別立ての配信を計画中です。視聴を希望される方へはメールにてご案内しますので、フォームよりその旨ご希望をお教えください。
◉申込みの受付は終了し、フォームは閉じました。

http://www.metmuseum.org/art/collection/search/437153

内容紹介

◉「ひとつの声をもち、四つ足、二つ足、三つ足となっていくものとは何か?」
いまや子どもでも知っているこの謎々の答え、本当に正解なのでしょうか? 神話の改竄? ソポクレスの悲劇に真実が? ことの真相をめぐって旅をします。なぞを解く鍵は、人間の言葉と文字にあります。
舞台は古代エジプトから中世日本、現代の出雲、東京、伊勢と飛びまわり、領域も神話世界、文学、哲学、民俗学、環境生態学、論理学、認知科学、医学、美術史などなど、時空を駆け巡ります。
◉案内人は、どこかの山のふもと、川のほとりにすむ編集人。本はあまりつくらず、焼畑をしたり、お店で皿を洗ったり、竹を切ったりしているらしいです。その谷の1万年という時を、ルーペをのぞくように微細に記し、歴史(自然誌)にしようというです。山や谷は本を読むようによめるはずだとも。どういうことでしょう。スフィンクスの謎とどう関係するのでしょう?
ともかく、ふつうじゃない、おもしろいことになりそうです。
乞うご期待。

◉主要参考文献・資料等
〜寺子屋あわい堂2024前期「言葉と神」1を中心に2,3を含む・2024/01/15時点

†. 西郷信綱『古事記注釈・巻1,巻3』(ちくま学芸文庫)
†. 野崎守英『宣長と小林秀雄』(名著刊行会)
†. 小林秀雄『本居宣長』(上下巻・新潮文庫)
†. 本居宣長『古事記伝』(一,二,三,四・岩波文庫)
†. 本居宣長『古事記傅・13』(NDL)
†. カルロ・ギンズブルグ『神話・寓意・徴候』(竹山博英訳・せりか書房)
†. ディビッド・エイブラハム『感応の呪文』(結城正美訳・水声社)
†. G.ベイトソン『精神と自然―生きた世界の認識論』(佐藤良明訳・岩波書店)
†. 有馬道子『記号の呪縛―テクストの解釈と分裂病』(勁草書房)
†. T.A.シービオク『自然と文化の記号論』(池上嘉彦編訳・勁草書房)
†. C.レヴィ=ストロース『構造人類学』(田島節夫ほか訳・みすず書房)
†. C.レヴィ=ストロース『サンタクロースの秘密』(中沢新一訳・みすず書房)
†. 中井久夫『世界における索引と徴候』(中井久夫集3・みすず書房)
†. 中井久夫『家族の深淵』(みすず書房)
†. 中井久夫『隣の病い』(ちくま学芸文庫)
†. ソポクレス『オイディプス王』(河合祥一郎訳・光文社文庫)
†. ソポクレス『オイディプス王』(藤沢令夫訳・岩波文庫)
†. アポロドーロス『ギリシア神話』(高津春繁訳・岩波文庫)
†. カール・ケレーニイ『ギリシアの神話―英雄の時代』(植田兼義訳・中公文庫)
†. プラトン『パイドロス』(藤沢令夫訳・岩波文庫)
†. ニーチェ『善悪の彼岸・道徳の系譜』(ニーチェ全集11・信太正三訳・ちくま学芸文庫)
†. テッド・チャン『あなたの人生の物語』(浅倉久志ほか訳・ハヤカワ文庫)
†. 坂部恵『かたり―物語の文法』(ちくま学芸文庫)
†. 坂部恵『ペルソナの詩学―かたり ふるまい こころ』(岩波書店)
†. 森鴎外『山椒大夫・高瀬舟』(新潮文庫), 同(青空文庫)
†. 夏目漱石『こころ』(新潮文庫)
†. 大室幹雄『ふくろうと蝸牛―柳田国男の響きあう風景』(筑摩書房)
†. 折口信夫『死者の書・身毒丸』(新潮文庫),「身毒丸」(青空文庫)
†. 宮沢賢治『注文の多い料理店』(全集8・ちくま文庫), 同(青空文庫),   同・序(青空文庫)
†. 西村国次郎「島根縣庁焼打事件懺悔覚書」(1952年・島根県立図書館所蔵)
†. 猪瀬直樹『天皇の影法師』(新潮文庫)
†. 安丸良夫『神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈』(岩波新書)
†. 速水保孝『出雲の迷信』(学生社)
†. 『民衆史の遺産第10巻 憑きもの』(谷川健一・大和岩雄編・大和書房)
†.  堀一郎『民間信仰の形態と機能』(堀一郎著作集 7 ・未来社)
†. 井筒俊彦『言語と呪術』(井筒俊彦英文著作翻訳コレクション・安藤礼二,小野 純一訳・慶應大学出版会)


 

余談としてのIntroduction

つれづれに

「われわれは真理を欲する、というが、ところで、なぜにむしろ非真理を欲しないのか? なぜに不確実を欲しないのか? なぜ無知をすら欲しないのか? ― 真理の価値の問題が、 われわれの前に歩み出てきた、 ― いな、この問題の前に歩み出ていったのは、われわれの方であったか? ここでオイディプスであるのは、われわれのうちのどちらであるか? どちらがスフィンクスであるか? いうなればそれは、疑問と疑問符との密会のようなものだ」ニーチェ『善悪の彼岸』からひく(信太 正三訳・ちくま学芸文庫)

まだ学校へあがる前だったから、4〜5歳の時分だったと思う。縁側に腰かけ、庭を眺めがら来客と話している曽祖父の姿に憧れていた。大きくなったらおじいさんになりたかった。
年齢を重ねれば誰しも「おじいさん」になれるものではないことはあとから知った。もはや還暦も近いのだが、まだまだ一向たどり着けそうもない。代わりにというわけでもなかろうが、かれこれ十年ほど山へ竹を切りにでかけている。おじいさんは山へ柴刈りにとばかりに。あるいは竹取の翁を連想していただいてもよい。浮世から離れた所業である。竹藪を切り払い、焼畑をしているのだ。商品化云々とはほど遠い。諸事情は、簡単にではあるが、書籍にも載せているので、ご笑覧いただければと思う。
私が通う山はダム建設で削り取られた谷に面している。集落は移転し人もすまず、いまは牛が放牧されている牧場でもあるのだが、岩伏の谷と呼ぶことにした。この谷のmicrostoria(micro history―来歴)を、竹を切り、足をすべらせ、蜂にさされ、泥を寄せ、火を放ち、種子を植え、草をとり、樹の実をつまみ食い、などしながら、思うのだ。

Microstoriaはイタリア語で直訳すれば「微小な歴史」。マイクロヒストリーと呼ばれることが多い。歴史をとらえるのに、望遠鏡ではなく顕微鏡を用いる。顕微鏡をのぞきみるように、ある時代の特定の場所、個人に焦点をあてて記述していく。そして、そこからマクロな大きな歴史的問いにこたえようとする「方法」であるといわれる。

だがしかし、microstoriaは、方法であるより前に、書く、読む、残すということの根源にふれようとする実存性であるように、私には思える。代名詞的存在ともいえるカルロ・ギンスブルクが最初に向かったのは、歴史家が拾うことのなかった庶民の裁判記録や地方に残存する公文書であった。魔女狩りという正義の狂気の時代、刑に消えていった人物と思想、そこに光をあてるため? いや。光があたったところで救われはしない、報われはしない、そんなひとりの人間の声をきき、ともにあらんとする態度ではなかったかと、私は勝手に思う。

若桑みどりは、イタリア・バチカンに部屋を借り、日本に渡った宣教師の日誌を読み続ける。『クアトロ・ラガッツィ』(集英社)では、彼女が向かおうとした場所、だれとともにあらんとしたかが、示されている。

「それは、肥後の国の十五歳の娘の話である。名前は書いていない。その改宗の原因は、父親の母親への暴力であった。法華宗信徒の父は、激しやすく凶暴な性格で、母親に暴力を振るうのが常だった。娘は十歳ごろから、父の母に対する暴虐を見てあらゆる仏に願をかけて、父がそれをやめるように祈った。。しかし両親が法華なので、隠れて教会にきて洗礼を受けた。帰って母親にそれを打ち明けたが、親類に暴露され棄教するように脅迫された。……しかし、彼女はひそかに隠れてマリアの聖画像を拝んだという話である。この話には……、落ちがないのである。(中略)この世で、十五歳の庶民の娘ができることはほとんどない。世のなかも変えられないし、荒涼たる家庭も、暴力的な父も、泣き叫ぶ母も変えられない。家を出るなどは論外である。ただこの世にはやっていけないことがあり、それをやった人間が、いますぐにではないにしても、必ず罰せられ、正しいものは正しく、悪いものは悪く、すべてが裁かれるときがくる、このことが少女を慰めたのにちがいない。いかなる歴史にも登場するはずがない無名の少女、大名の妻でも娘でもない、五百年前に生きていたこの少女こそ、私がもっとも身近に思う人である。」

ここにあるのは感傷ではない。私が、ここに、若桑みどりと、五百年前、熊本が肥後と呼ばれていた時代に、確かにいた少女との「つながり」に感じるもの。それは、生きようとするものの力のあり方だ。一心不乱に生きようとする力だ。オチなどがつけられるような、安定した秩序に何重にも守られたなかでの安全で確実(だと思われている)生ではない。

だからこそこの話には「オチ」がないのだ。

この文にもオチがないのだが、つづく、ということで、ここまで。