山を移動する職能集団の足跡を追いかけている。ここ何年か。彼らの目に、山は、森は、谷は、どう映っていたのだろう。何を食べ、どこに住み、どんな寝床で眠りにつき、目覚めたときに耳にするのはどんな音や声だったのだろう。
説話文学、芸能など、主として文字に残されたものを「よむ」ことからのアプローチ。またそれらを含めた文献史学から確たる事実を「ひろう」ことをもって足場をつくっていくアプローチ。その記憶がある翁媼から聞取るあるいはその記録を読むアプローチ。どれをとっても心もとない。それぞれ複合するといえばよさそうにみえるのだろうが、どれも中途半端に終わるであろう先が見えてしまう。
どうすればいいのか?
旅を範とすればよいのだろう。地図はあるが、優先する現実はつねに目の前にある。道しるべは頼りになるが、ないところであきらめるのではなく、そこで手に入るものや既知のことなどを、自らが総合判断して、先へ進む。これから書き記す一連のものは、日記とも備忘ともとれるようなそんな記録であり、ひとつの旅なのだ。
遠く古代の木部の民、タタラ、鍛冶屋、木地師、くぐつ、サンカ、山伏……。
出雲の山墾りと称し、ひとり藪山で、鉈や鍬を手に、竹やら草やらを相手にしながら、百年二百年三百年前の「生活」を想っては、家に帰り文献を漁ってきた。
が、私が知りたいと求めるものはそこにはなく、ないからこそ、探し求め続けるのであるが、そんななかで、茸師という存在が気になりはじめた。茸師は椎茸栽培業者として現在もその生業としての地位があることもあり、「山の民」の列に加わることはないものだが、彼らのルーツには「山の民」と共通する何かがあるのではないか。かすかにではあれ、である。その手がかりを糸の先として、山の思想、その種子を、私たちの日々の暮らしのなかに見つけてみようという趣意をもって取り組むが、この一連の文である。
名をあげるにおそれおおいが、柳田國男の「山の人生」、本居宣長の「古事記伝」、そして中井久夫『世界における索引と兆候』を座右におきつつ。
◆大分県津久見市の偉人としての「三平」
三平の墓石はもとあった場所から移され、現在益田市匹見町紙祖にある(34°34’00.6″N 132°00’51.4″E)。「茸作 豊後國市平墓」「嘉永五壬子十一月死去」「世話人 廣見河内村中」…追記a.
墓石の銘はこれだけであるが、「壬子」「死去」の箇所は読み取りにくく推測に基づく。名が三平ではなく市平であることの理由は未詳。
これまで手にした史料からわかることの概要を記す。
享和三年(1803)、現津久見市彦ノ内生まれ。天保5年から5年間、肥後国深葉の官営事業所で椎茸栽培に従事。当時、同郷同僚であった徳蔵とともに出国。徳蔵は現津和野町横道に、三平は天保11年から現益田市匹見町広見河内に入り、椎茸栽培事業をはじめる。
三平は嘉永5年に雪山でなくなる。かつて徳蔵と同じく深葉の事業所で同僚であった嘉吉が後年(明治中頃か)語ったことにより、以下のことが伝わっている。
《嘉永5年12月。大雪の降る夕刻、三平は茸山を下って里に出た。その帰路、平泊というところの二軒家の知人の家に立ち寄った。おりから吹雪はいよいよ激しくなったので、知人は泊まっていくようにすすめたが、三平は雪の中を山へ帰っていった。
春を迎えた二軒家の人たちは、三平がおりてこないのを不審に思い、茸山をたずねた。そこには雪に埋もれて冷たくなっている三平の姿があった。三平は平泊の人たちによってねんごろに葬られた。匹見からは三平の死を知らせる者が郷里に飛んだが、三平の家では絶えて音信のなかったことであるので、かかわりなどをおそれて使いをひきとらせた。
春、やがて、茸山には爆発的に春子が発生した。ひとびとは、いまさらながら、三平の茸づくりに驚嘆した。それからこの地方は椎茸の栽培地として知られるようになった。そして後年、三平の遺徳をたたえ、供養塔を建て、三平祭りを営んでいるという》※1、※2などによる
また、大分県津久見市長泉寺境内にある椎茸碑の中には、次の一文がある。
《往昔、天保の頃、津久見の先覚者彦之内区三平、西之内区徳蔵、嘉吉、平九郎、久吉等の椎茸栽培業研修に端を発し、三平、徳蔵は石見へ出向、椎茸栽培業を経営す。是中国に於ける専門事業者の始祖なり》
三平が椎茸栽培を手がけていた山はどこにあったのか。墓のあるそばだろうか。墓の世話人には廣見河内村とあるので、廣見河内のどこかの山だろうか。ところで、豊後に残る記録には、平泊の人たちによって葬られたとある。
匹見在住で地元の民俗に詳しい渡邊友千代さんによれば「小原集落の平溜(ひらだまり)というところに墓があったそうです。現在は、そこには人が住んでいませんが、出身者が匹見支所の近くに移動させたとのこと」(田代信行さん取材による)
そして、平溜は廣見河内とはずいぶんと離れているまったく別の集落である。
未詳なる三平のことを知る手がかりは、ここらあたりにあるのだろう。
三平、徳蔵はいわばパイオニアであるが、明治に入ると数百人の茸師が豊後から石見に入ったものと思われる。大庭良美『石見日原聞書』※3には明治9年生まれの薬師寺惣吉の話が詳細に記されている。惣吉が豊後から柿木村椛谷に入ったのは明治26年。当時はまだ植菌でなく鉈目を入れて胞子の活着を得る方法が主であった。
◆国東治兵衛の椎茸栽培はあったのか
先にあげた顕彰碑に「三平、徳蔵は石見へ出向、椎茸栽培業を経営す。是中国に於ける専門事業者の始祖なり」とあるように、大分の椎茸栽培顕彰会などでは、三平と徳蔵が石見に入った天保11年をその魁としている。
しかし、もっと早い時期、石見地方で椎茸栽培が事業的に行われていたことを、短文であるが、載せているものがある。それは「紙漉重宝記」を著し藺草栽培による畳表を遠田表として全国的特産品として育てた国東治兵衛の功績としてである。時代は三平が石見に入った天保年間より五十年ほどもさかのぼる寛永年間以前のことである。
千葉徳爾は、『西石見の民俗』※4所収の「土地利用の展開」のなかで、西石見の林産物としてナバ(椎茸)が多いことをあげ、次のように記している。
「記録によれば、豊後から益田に移住した国東治兵衛が、畳表と共に移入してひろめたとある。しかし、この地方全般にひろまったのは明治中期からである」(P.35)
ここでいう「記録」がなんなのかは、一見わからない。「豊後から益田に移住」したのは治兵衛の先祖であって本人ではないので、同じ誤りかそう誤読させやすい記述となっている史料なのか。ただ参照したもののひとつが矢富熊一郎『益田町史』であることは、巻末史料にもあることから確かだろう。※5 以下にひく。
「国東治兵衛の郷里は、(益田町の)隣村遠田村である。…(中略)…彼が晩年に当る寛政十年、紙問屋として郷里に働いたことは、彼の著「紙漉重宝記」に依って知られ、藩主松平周防守から抜擢されて、「間仕事取調係」に委嘱されたことは、松平家古文書によって知られる。……中略……領内産業奨励の事務を托せられるや、畳表は勿論のこと、山地帯美濃郡奥部地方には、楮を栽植させて紙漉の事業を奨め又椎茸の栽培を徹底させて、間仕事たる副業方面の、向上発達に至大な貢献を与えた。」(P.427)
ますますわからなくなりそうだが、そうではない。国東治兵衛と三平、このふたりはどこかでつながるはずである。椎茸は当時にあって重要な商品であり、そこに商人の介在が必ずあったはず。国東治兵衛は豊後商人とのつながりもあり、畳表はいわゆる北前船、廻船問屋を通じて東北から日本海を通り下関を通り瀬戸内海を大阪まで行き交っていたのである。
この航路と豊後の茸師が少なからぬつながりを持つであろうことは、島根県内において、石見に続いて大分の茸師が入った地が隠岐島であることからも、伺える。
山と海をつなぎ、二百年前と今をつなぐ物語でもある。
その、つながりを求めて、この渉猟はしばらくつづく。国東治兵衛については、項を改めつつ並行して追っていくことになろう。
◆参照史料
※1 青木繁,1966『豊後の茸師―シイタケづくり名人記』富民協会
※2 源兵衛翁顕彰事業発起人会,1978『大分の茸山師』;大分県立図書館蔵
※3 大庭良美,1974『石見日原聞書』未来社
※4 和歌森太郎 編,1962『西石見の民俗』吉川弘文館
※5 矢富熊一郎,1952『益田町史,第1巻』益田公民館…第2巻だったかもしれない
◆その他参考史料
佐藤成裕,寛政8『温故斉五瑞篇』
伊藤達次郎,1952「椎茸栽培の史的考察」;日本林學會誌/34巻・9号
沖本常吉編,1964『日原町史 上巻』『日原町史 下巻』日原町教育委員会
牛尾三千夫,昭和52『美しい村―民俗採訪記』石見郷土研究懇話会
矢富熊一郎,1966『石見匹見民俗』島根郷土史学会
◆関連雑記
茸師と飢饉〜樟の森の研究室
◆追記a.
過日、現地で墓碑銘を確認したところ。写真でしかわからなかったのとは違い、以下である。
「茸作 豊後國市平墓」
「嘉永五子年十二月廿日」
「世話人廣見河内村中」
◆追記b
5年来の宿題でもある。