日原の茸作、横道の山

今日は2020年の9月7日。大型の台風が接近することが予報され、学校や一部の官公庁が臨時に休日となるような日だった。家の外を整理し、この夏つくったばかりの庭木に支柱をたててもらったりして迎えた日だったが、幸いにも大きな風雨に見舞われることなく家も庭も無事であった。時折強風にガタガタと音がする以外は穏やかといってもいい日和ではあったが、不測に備えているため、どことなく落ち着かず、書類の整理やたまった経理を片付けていたりした。
 そんな中で、昨日来、茸師三平のことを調べていた。手元の資料では行き詰まり、新たに見るべき資料をあげるのと、匹見・日原方面への取材計画を練りながら、大庭良美さんの『石見日原聞書』を読み直していた。調べごとの備忘としてここに記しておく。

2年前の2018年8月に、宮本常一『山と日本人』を紐解きながら、巨木が眠る深山の木々を「切れるわけがない」と、おそらくはふたつの意味で口にしていた日原や吉賀の地の人らの声を思い出したのだ。(本の記録〜2018年8月)。 直接に耳にしたわけではない。祖父やその父たちが言っていたその語りを思いとともに口にすることができた人たち数人が「あぁそうだ」「そう言っていた」とうなずきあうその場に私も居合わせていたに過ぎない。益田での「森聞き」上映会(2012年1月)でのことだ。つい1年前のことのように思い出せる。8年ごしの宿題なのかもしれない。

さて、以下に「石見日原聞書」から「きのこ山師」の項をひきながら、注釈を加えていきたい。随時加筆するものとして。

◆きのこ山師より
 私は大分県の豊後のもので、明治九年生まれ、今年八七になります。

 滝元の薬師寺惣吉さんの語りである。豊後の茸師三平は享和3年に生まれ、嘉永5年に没しているから、その曾孫くらいの世代だろうか。母の話がこれに続けて出てくるのだが、そうしたことが存外に重要だと思われるのだ。

私はナバツクリで、島根県へはじめて来たのは十八の年でありました。柿木の椛谷(かばたん)のしもの地蔵さんのおんなはる溢(えき)で、そこは山奥で人をあんまり見たことがないから、子どもがナバツクリを見て、キノコヤマシが人間を見たようなチンコを出して小便しとったというた。

 溢(えき)は、小さな谷を意味するこの地方の方言である。言葉に込められたものが私にはまだわからないが、注意して見ていきたい。えきは妻にきいてもわからないとのこと。意味だけではない感情のようなものがこうした語句にはついているものだ。それを感じてみたい(知りたい)。※1
 薬師寺惣吉さん(以下、惣吉と記載する)が島根に来たのは明治27年か。まだ江戸時代から続く村のあり方が残っている時代である。そのなかでも茸師という存在の目新しさを物語ってもいる。惣吉は椛谷で数年を過ごした後、日原へ入っていくのだが、当時、ほかにもたくさんの茸師が豊後から入ってきたようだ。
 別項の「椎茸(なば)」にはこうある。

 日露戦争よりも前、豊後からナバ作りがじょうに来よりました。あっちい、こっちい、広い山を買うてナバを作り込んで、山に小屋掛けをしておりました。冬は山番だけが残って、時期になると皆やって来ました。ナバは四尺に五尺くらいな箱に詰めて送りよりました。中にはここに落ち着いた人もおります。(横道 安見藤太郎83歳・昭35,3録)

 日露戦争は明治37〜38年だが、明治30年を過ぎたあたりから5年くらいがそのピークだったのではないか。惣吉はその中でも先駆的な位置にいたのではないかと推測する。このあたり、源兵衛翁顕彰事業発起人会編「大分の茸山師」で確かめてみたい。

 宮本常一が『山と日本人』で語っていた日原の奥のこと(本の記録〜2018年8月)だが、『石見日原聞書』のなかで、木こりが山で木を切るとき、その儀礼について語られているところを確かめることはできなかった。その木こりが岐阜からきていたということは、いくつか重なるものもある。
 たとえば「官林伐採」の項で、横道の吉松吉十さんがこう語っている。時代は明治35年に道路が横道につき、線路が41年〜42年についたその時代の話としてである。

 木挽きは主に岐阜の者が来てやり、木馬道は土佐の者がつけて出しをやりました。多い時には伐りと出しで三〇〇人くらいおりました。

 吉十さんは、道路がつく前、直営の伐採がはじまる前にも木だしがあったことを少しふれている。宮本が残している、日原の人はだれも伐ろうとしなかった木が切られていくその発端としての岐阜からきた木こりの伐採は、その頃の話になるのだろうか。
 同じく「官林伐採」の項で、下横道の大谷吉三郎さんは、よそものが大半であったことをこう語っている。

 山仕事をする者は何百人とおる、これに使うものはすべてトロであげました。仕事しは土佐から四国、広島県の山県郡の方の、よその者が主でありました。よそもんは六〇銭、七〇銭の仕事はせん。木出しは木馬でドバまで一日に一〇石も一五石も出す。木馬はあぶない仕事で年に二、三人は死にました。その頃は横道は仕事しがじょうに入って、祭りにはよそ者が喧嘩をする。年寄りなどは恐しうて行けんような有様でありました。

 よそものがたくさん山にやってくるのは、茸師もそうであったが、明治後期からはじまるこうした数百人規模のものは後にも先にもないものだろう。
 タタラも多いところでは百人をこえてはいただろうが、三百人ほどの大きなところが石見にあっただろうか。どうだろう。茸師集団も数十人くらいであったことが伺える。
 古くは小集団としての木地師、そして近世からのタタラ、茸師、近代の大規模伐採(なんと呼んだらいいのか)、これらに共通するものを意識しながら読み込みを進めていく。
 まずは、移動する集団であること、樹木の豊富な深山に入るものであること、のふたつ。

 移動性、そして樹木の生い茂る深山、ふたつともが近世すなわち室町後期から江戸時代にかけて失われ続けていったものであることをも確かめながら。すると、鹿足郡で最大の深山が横道にひろがっていたことがみえてくると思う。
 豊後の茸師、その中国地方への先駆者として津久見の人たちがあげるふたり、三平と徳蔵。三平は広見河内で、そして徳蔵は横道で茸山をはじめた。江戸時代も後期に入ると、ほとんどの山は草山になっている。江戸中期に描かれたと推されている石見国図をみてもはっきりしている。
 日原聞書を読み直していて、横道の南の深山(と思っていた)、安蔵寺山も火を放たれ、草山となっていたことを伺わせる聞書があり、驚いたのだった。

iwamiezu_yokomichi

(つづく)

※1「えき」その1…小学館『日本国語大辞典』には方言として3項ある。
1)中央の縦谷から左右に派生した小谷。支谷。《えき》島根県、広島県山県郡
2)谷。谷間。《えき》島根県、広島県、山口県阿武郡 《えきなか》島根県鹿足郡
3)へんぴな所。《えき》島根県
 『石見日原聞書』を読んでいて、「えき」という言葉を使うときには、自分がいる・いた・住んでいる場所を指すときに出るのではないか。「へんぴなところに住んでいて」というような。卑下や謙遜と似ているが違う何か。含み、深みのある言葉だと思うのだ。鹿足郡で用例のある「えきなか」という言葉をたどっていけば、もうすこしわかるかもしれない。2020/10/26
 
※1「えき」その2…篠原徹は、昭和48年(1973)「Ethnobotanyから見た山村生活」に、岡山県湯原村粟谷における植物名が、その利用(分類と伝承)と深く結びついてきたことを述べたあとで、山の地形名も区分もそうであると指摘しその具体をあげている。そのなかに谷について、サコとタニは水が常時流れている場かそうでないかという区分を示している。ほかの地形もあわせていくつかを拾ってみると、サコがタニの上部平坦地であるのに対し、エキはタニの下部平坦地であって常時水の流れていないところではないのかと、そう考えて今後見ていくとよいのではと思い追記する。
《ミヤマ(ブナ林を主とする落葉広葉樹林地)・タカツンゴ(山の頂上付近)・ソネ(尾根)・タワ(山の鞍部)・ソウリ(もと焼畑地帯で今は草刈場)・ズリ(崖など土壌が露出したところ)・シバヤマ(シバを採る山)・タニ(水の常時流れる谷)・サコ(水の常時流れていない谷の上部の平坦地)・ナル(山の斜面の平坦部)・ヒラ(山腹)・シロ(茸の生えそうな場所)・ホキ(渓流岸壁)・ウオキリ(魚が上れないような場所)・ジル(山の中の湿地)・サワ(谷の源頭部)・セト(谷で両側の山がせまって最も細くなった部分)・ハラ(原野)・ナメラ(谷で岸壁が露出して掘れないところ)・クボ(耕地)》2020/10/24

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