令和8年の年頭挨拶にかえてー椎茸栽培の深淵

 椎茸は有史以前より日本列島に自生している菌類のひとつである。鹿や猪も椎茸を食するが、とりわけ猿が好んで食することは江戸時代にはよく知られていた。よって、人も同様に採取して食することは、文字の使用以前からあったものだと、措定する。*1)

 ある菌類、ここでは椎茸であるが、よりひろく生物といってもいいだろう。ある生物が天然採取物から栽培するものへと進展する歴史的過程。通常、栽培化と称される一連の過程は、人が自然との関係を計画的に編成し直す実践であり、人間社会の形成と呼応しあいながら、その中で生きる多くの人の実践のなかで並走してきた。

 栽培化される生物に焦点をあてるならば、対象となる種や語られる領域によって差異を生じるとはいえ、栽培化が生じる際の、共通項をあげることは難しくはない。必要条件としての囲い込み―圃場形成・灌漑管理・単作による多種の排除等。そして十分条件としての生殖のコントロール―自然繁殖の抑止、選抜育種等。煎じ詰めればおよそこの2項に尽きよう。そこに照らしてみれば、菌類の栽培化が他の植物と異なる困難を抱えていることは、容易に想像できよう。十分条件たる生殖のコントロールは近代菌学の理論と技術がなければなし得ないように思える。

 しかし純粋培養による種の選択配布と、外界環境から遮断された施設栽培を栽培化の最終形態とみる地点からは見えにくいものがある。陰に隠れた寡黙な存在としての実践知・民俗知である。

 菌類の栽培化は民俗知が先に走り、科学知があとから追認・加速するかたちで進んだ。

 椎茸の栽培化は、その発生をみる原木を管理するという山の実践知が長く主導し、発展進化させてきた。近代科学がそれを評価しないのは、椎茸は樹木のなかから化生してくるものであり、木材が椎茸に変わるものと、そこでは考えられていたからである。しかし、胞子菌糸の認識を抜きにして、一八世紀後半には産業化ともいえる大規模な栽培が顕在化し、技法が確立していく。菌学による胞子や菌糸を接種する方法は明治半ばから次々に試みられるが、栽培の主流となることはなかった。ラボで交配され改良された菌を純粋培養したものを「種駒」として用いる現代に至る方法は一九四〇年代に見出され、戦後に普及する。

 椎茸の栽培化を完成させた純粋培養菌摂取法は、欧米のマッシュルーム栽培から影響を受けたものである。そして、マッシュルーム栽培もその黎明は、寡黙な知が担ってきた。椎茸のそれを山の知とするならば、マッシュルームのそれは庭の知である。

 一七世紀のパリで厩肥床に生じるシロの移植からはじまり、一九世紀の石切場・地下空間が栽培環境として定着する。純粋培養への転換は、一九世紀終わりにラボで開発されたものが、一九三二年に特許化され、均質接種×工業化で栽培化プロセスの終局に至る。この間、シロを増殖させて移植するという技法を発展させながら担ってきたのは、のちに専業家する職人となるが、出自は市場園芸家と呼ばれる都市近郊で市場向け野菜を年中出荷した職能集団である。中世以來の系譜をもち、王室園芸ともつながりをもつ。

 在来の古い栽培法は不安定で失敗も多く試行錯誤。そこへ近代の培養技術が導入され、栽培技術として確立した。こうした物語はわかりやすいし、とんでもない誤りというものでもない。

 しかし、それまで培われてきた基礎的土台ともいうべきもの。それは椎茸栽培において、培養されたコマを原木に打ち込むというなかでも生き続けているもの。それらがよって来るところを、忘れてしまうことになりはしないか。軽視はやがて無視となり、忘却となり、禍を呼ぶものとなる。

 民俗知は寡黙である。無理に語らせようとすれば、架空の英雄をつくりあげ、間違いないと声をあげたりする。それが一層、科学知からは忌避され、敬遠されもした。不幸ではないか、お互いに。椎茸の栽培化には、事実、民俗知と科学知の両方が必要であったし、いがみあうようにみえて、絶妙のパートナーではなかったのか。

 そうした観点から、椎茸の栽培化の歴史を、主に半栽培あるいは自然栽培と呼ばれる時代に重点をおき、たどってみたい。それは道のりというよりは、複数の線と力が重なり、ひるがえり、入れ替わり、絶ち切られ、結びなおされ―とでもいうような様相を呈するものだ。あやとりのように、からみあう菌糸のように

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