妻から、必ず忘れてしまうので「書いておきなさい」といわれ、なるほどと得心して記しはじめるものなり。
【2018年8月12日島根県立図書館にて】
忌部の峠から松江に向かっておりはじめると、高層の限界近くまで立ち上がった積乱雲がみえた。
スコールを予感しながら市街へ入るころには空は暗くなりはじめる。図書館前の駐車場に車をとめ、入口にたどりつく途中からパラパラと落ちはじめ、館内に入ってから振り返ると、傘をひろげる人が見えた。
館での滞在は約40分ほど。検索で所在を確かめ、開架にあるもの2点ほどを手にとるついでに、ふたつみっつを確かめた。「現代思想」は雑誌からはずれたようで見当たらない。これまでのバックナンバーは地下書庫か。
さて、本題。
◉宮本常一2013『山と日本人』八坂書房
著作集、単行本未収録のものが基本。必要なところだけメモしようかと思うも、読み込んでみようと借りた次第。巻頭に入れられた「魔の谷・入らず山」に身近な話が掲げられていたこともある。
《山口県の滑(なめら)から島根県の吉賀の奥にかけての官林のスギは、まったくすごかったそうである。その巨木ぶりは、十人もの人が両手をつなぎあってやっと測れるほどの大木だっという話まで語り伝えられ、しかもそんな大木はいくらでもあったという。…(中略)…時にはそのスギの中ほどに雲がたなびいていたこともあった。人々がそれまでそういうスギを切らなかったのは天狗の寄り木だと信じられていたからで、日常もこの山に入るとこの山に入ると天狗に投げとばされるといって、めったに人の入ることはなかった。その木を国有林の役人は切らせはじめた。》
田中幾太郎氏から聞いていたことを思い出したこともある。地元の人は「切れるわけがない」と。技術的なものと信仰的なものとのふたつから。前者はとりわけ戦後、機械が可能にしていくわけだが、後者については、宮本氏も記しているように、他所から木こりを呼んできたのだった。
宮本によれば、日原奥の人々は誰がなんといってもこのスギ倒しに参加しようとする者がいなかったという。日原奥とは、左鐙の奥の横道ではなかろうかと思う。
《最初の杣人は岐阜県の山中の者がたくさん来た》
《美濃(岐阜県)の杣人たちは、木を切るとき必ずその木の根に斧をたてかけ、おみきを供えてお祈りをした。…(中略)…木を倒すと申し合わせたように切株にスギの枝をたてた。…(中略)…土地の人たちはそうした作法を見て、なるほど山の神々をなだめる方法もあるものだと思ったそうである。そして次第に奥山に入り木を切るようになったといわれる》
興味深い話である。このあたり『日原聞書』にあたって異同をひろってみたい。
※「日原奥」と書いているが、引用部にその記載がない。改めて確認し引っ張っておこうと思う。
ほか借りたものは以下4冊。
◉宇江敏勝・昭和55『山びとの記ー木の国 果無山脈』(中公新書)
◉ネリー・ナウマン1994『山の神』(言叢社)
◉佐々木高明2006『山の神と日本人』(洋泉社)
◉津山正幹2008『民家と日本人』(慶友社)
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