動物と人のあいだ〜金森修『動物に魂はあるのか』etc.(本の話#0013)

本の話とカレーのゆうべ。人文カフェともサイエンスカフェともいえましょうが、そのご案内。
「森と畑と牛と」 編集人の面代真樹が、動物と人との関係を、思想と科学の歴史を軸にお話します。
◉主 催:カフェオリゼ&樟舎
◉日 時:10月5日(金)
開 場…18:30〜
トーク…19:00〜20:30
(20:30〜22:00 食事とカフェの時間)
◉場 所:カフェオリゼ(島根県雲南市木次町里方331-1)
◉参加費:2,500円(スリランカカリー、ドリンクセット含)
◉定 員:12名
◉申 込:メールまたはFAXにて、「本とスパイス参加希望」として、お名前とご連絡先を明記の上、お送りください。申込は返信をもって受付と致します。
honto@ksnoki.org
fax0854-47-7181

◉内 容:案内人……面代真樹(「森と畑と牛と」 編集人)
あなたは、動物のメッセージを聞いたことがありますか?
かつて、動物が人に話しかけることは珍しいけれどあり得ることとして受け入れられていました。 古層への回路をもつ民の間では、今でも常識の範疇にあります。 日本でも百五十年ほどもさかのぼれば、その痕跡が見つかります。 たとえば石見地方の日原。ある日、狼が庭にやってきて「魚の骨がのどにかかって痛いから掘り出してくれ」と言っているのです※1。
しかし、最近の調査や報告から知れるのは、動物のメッセージを受け取れる人間も、言葉をしゃべる動物たちも、もう本当にいなくなってしまうのだろうということ。
なぜなのでしょう。
私たちは、もう動物の言葉を聞くことはできなくなってしまったのでしょうか。
いや、そうではなく……。私たちが聞く耳を失ったばかりではなく、動物たちのほうが、言葉をしゃべることができなくなってしまっているのだとしたら……※2。

そんなお話を以下の本をとりあげながら展開します。

『動物に魂はあるのか―生命を見つめる哲学』金森修著(中公新書)
『感応の呪文―〈人間以上の世界〉における知覚と言語』デイヴィット・エイブラム著/結城正美訳(水声社)
『ソウル・ハンターズ―シベリア・ユカギールのアニミズムの人類学』 レーン・ウィラースレフ著/奥野克巳ほか訳(亜紀書房)
『精神の哲学・肉体の哲学―形而上学的思考から自然的思考へ』 木田元・計見一雄著(講談社)

※1)※『石見日原村聞書』大庭良美・1974(未来社)による。動物が人と話すのは、民話のなかではあたりまえのように展開するが、実話・実歴となるとそう多くはない。 ただ、民話(昔話)と実話は明確な境界をもたず、重なりあうものでもある。神話と史実との関係にも似て。今回着目したいのは、この日原の例がそうなのだが、狼を見たことがある人が語っているということ。それは狩猟を行うものか近いものであったということだ。動物と話をするアラスカのコユコン、極北タイガのユカギール、いずれも狩猟民であることは、何をものがたるのか。
※2)「もののけ姫」での乙事主を思い出してみよう。「わしの一族を見ろ!みんな小さくバカになりつつある。このままではわしらはただの肉として人間に狩られるようになるだろう」

本の記録〜2018年8月

妻から、必ず忘れてしまうので「書いておきなさい」といわれ、なるほどと得心して記しはじめるものなり。
【2018年8月12日島根県立図書館にて】
 忌部の峠から松江に向かっておりはじめると、高層の限界近くまで立ち上がった積乱雲がみえた。
 スコールを予感しながら市街へ入るころには空は暗くなりはじめる。図書館前の駐車場に車をとめ、入口にたどりつく途中からパラパラと落ちはじめ、館内に入ってから振り返ると、傘をひろげる人が見えた。
 館での滞在は約40分ほど。検索で所在を確かめ、開架にあるもの2点ほどを手にとるついでに、ふたつみっつを確かめた。「現代思想」は雑誌からはずれたようで見当たらない。これまでのバックナンバーは地下書庫か。
 さて、本題。
宮本常一2013『山と日本人』八坂書房

 著作集、単行本未収録のものが基本。必要なところだけメモしようかと思うも、読み込んでみようと借りた次第。巻頭に入れられた「魔の谷・入らず山」に身近な話が掲げられていたこともある。

《山口県の滑(なめら)から島根県の吉賀の奥にかけての官林のスギは、まったくすごかったそうである。その巨木ぶりは、十人もの人が両手をつなぎあってやっと測れるほどの大木だっという話まで語り伝えられ、しかもそんな大木はいくらでもあったという。…(中略)…時にはそのスギの中ほどに雲がたなびいていたこともあった。人々がそれまでそういうスギを切らなかったのは天狗の寄り木だと信じられていたからで、日常もこの山に入るとこの山に入ると天狗に投げとばされるといって、めったに人の入ることはなかった。その木を国有林の役人は切らせはじめた。》

 田中幾太郎氏から聞いていたことを思い出したこともある。地元の人は「切れるわけがない」と。技術的なものと信仰的なものとのふたつから。前者はとりわけ戦後、機械が可能にしていくわけだが、後者については、宮本氏も記しているように、他所から木こりを呼んできたのだった。

 宮本によれば、日原奥の人々は誰がなんといってもこのスギ倒しに参加しようとする者がいなかったという。日原奥とは、左鐙の奥の横道ではなかろうかと思う。

 《最初の杣人は岐阜県の山中の者がたくさん来た》
 《美濃(岐阜県)の杣人たちは、木を切るとき必ずその木の根に斧をたてかけ、おみきを供えてお祈りをした。…(中略)…木を倒すと申し合わせたように切株にスギの枝をたてた。…(中略)…土地の人たちはそうした作法を見て、なるほど山の神々をなだめる方法もあるものだと思ったそうである。そして次第に奥山に入り木を切るようになったといわれる》

 興味深い話である。このあたり『日原聞書』にあたって異同をひろってみたい。

※「日原奥」と書いているが、引用部にその記載がない。改めて確認し引っ張っておこうと思う。

 ほか借りたものは以下4冊。
◉宇江敏勝・昭和55『山びとの記ー木の国 果無山脈』(中公新書)
◉ネリー・ナウマン1994『山の神』(言叢社)
◉佐々木高明2006『山の神と日本人』(洋泉社)
◉津山正幹2008『民家と日本人』(慶友社)

ストラヴィンスキーと観世静夫と声明と〜NTS Radioによる『AKIRA』の音楽の背景

ネットラジオNTS Radioの番組リンクです。

番組では、芸能山城組組頭・山城祥二が、『AKIRA』を作曲する際に影響を受けた曲をあげています。半分ほどが芸能山城組のレパートリー。PCのブラウザではいちばん下に表示されている再生ボタンをクリックすると、全曲が視聴できる。これ、権利処理をどうしているのかが、とても興味深いし、知りたいところ。おそらく期限つき。つまり早く視聴すべし。

https://www.nts.live/shows/guests/episodes/akira-influences-w-dr-yamashiro-11th-june-2018

ウバユリ、チガヤ、ハチク

火入れから4年を経過した、通称「中山」では、植生のきわだった変化が見られる。
 今年の春の特徴を忘れぬうちに書いておこう。

 写真のウバユリは、これまでまったく見られなかったもの。種がどこから運ばれてきたのか、休眠していたものが芽生えたのか、他の植物もそうだが、とても不思議でおもしろい。

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・昨年目立ったミツマタはどこへ行ったのか、今年は開花をみなかった。
・イタドリがふえた。
・春に開花するアザミがやや減った。
・火入れ1年目には単一植生で山を占有していたアレチノギクの姿がうすい。これからなのか。ただ、昨年夏の火入れ地にはボツボツと「きゃつら」とこぼれだねからの蕎麦だけが芽を出している。

 さて、この日は、道路の脇に出ていたハチクを切ってきた。時期は遅い。多くは、背丈を超えるほどにのびている。喰えるかどうかは明日のお楽しみ。
 チガヤはここ数週間で穂に花をつけている。「シューッとぬいて」、茎の下をかじりながら吸ってみると、甘いような気がしないではない。少なくとも苦みはなく、2本、3本とかじってみるうちにくせになりそうだ。子どものおやつにはちょうどいいのではないか、これくらいの甘さが。
ジューンベリーは、最近、鳥がしつこくこなくなったせいか、人が食べるぶんもけっこう残った。毎日つまみぐいしている。とりたてがいちばんおいしい。山にたくさん植えても鳥の餌にしかならないだろうから、庭に植えて楽しむのがいいんだろう。果実が実る木をもっと世にふやしたいものだ。
 実生から育てられないものか、ちょい挑戦してみようか。ガマズミの実は今年も芽を出しそうもない。やり方をかえて、また来年チャレンジしよう。そろそろ挿し木用に山から枝をとってこなくては。

5月の「本とスパイス」

別れの言葉といえば、あなたは何を思いうかべますか?
「さようなら」
そう。
けれど、考えてみればこの言葉、日常のなかで口にすることは、ほぼありません。
「じゃあ」
「またね」
「おつかれさまでした」
ふだん使うのはこれくらいでしょうか。もう会うことはないかもーーそんな場面ではなおさら「さようなら」ではなく「じゃあ、また」を使ってみたりする。だからこそ、「別れ際にさよならなんて悲しいこと言うなよ!」と碇シンジくんは叫んだりするわけです。
一方、相手と二度と会いたくないような場面では、言葉の出る幕がない。
そんな使いづらい「さようなら」って、もともとどう使われ、どういう意味と由来をもっているのか。近世史家である髙山宗東さんの著書『お言葉でございます』をひもとけば、じつは、「さようなら」も歴史的には新しい言葉で、「それじゃあ」と同じ意味だった……と知れます。髙山さんは、そこから、ある小さな物語をはじめています。ちょっと泣ける話でもあり、そこはこの本を購って味わってみてください。
さて、5月の本とスパイスは、この本と髙山宗東さんという御伽衆を扉のようにして、「消えゆくもののために」をテーマに、みなさんを言葉のめくるめく世界へご案内します。「すべての言葉は、その場所から消えてなくなるもののためにある」。まず、この見晴らしが得られる場所へ。そして……
「さようなら」
この言葉が、みちびいてくれる、その先へ、歴史と文学と、自然科学や人類学の知見もまじえ、わけいってみたいと思います。

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◉テーマ:消えゆくもののために
 〜『お言葉でございます』髙山宗東
◉日 時:2018年5月25日(金)
◉開 場…18:30〜/ライブ…19:00〜20:30
(20:30〜 食事とカフェの時間。退場自由)
◉場 所:カフェオリゼ(雲南市木次町里方331−1)
◉案内人:面代真樹(「森と畑と牛と」編集人・樟舎)
◉参加費:2,500円(スリランカ・カレー/ドリンクセット含)
◉定 員:12名
◉問合せ・お申込は以下のいずれかで。返信をもって受付です。
❶カフェオリゼのfacebookページからメッセージを送信
❷樟舎宛FAX:0852-35-5139
❸樟舎宛メール:honto@ksnoki.org