誰が考えることなのか

焼畑5年目の山の緑。年に一度の草刈りと牛がときどきあがること、それらのバランスが整った場所だとこうしたつる性の多様な植生と種々の低灌木の幼樹が土を肥やしながら、次なる奪還者の到来を準備するのだろう。しかし、他の場所ではヨモギとセイタカアワダチソウが少しずつ裾から上へとその版図をひろげつつあり、どうしたものかと、梅雨の霧雨のなか、佇み考えてみた。いまのうちに抜き去るか、何か他の手立てを講じてみるか、何もせずに「自然」に委ねるか。あぁ、それにしても、雨がうれしい。

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それは「山」が考えることですから。
と、この山をみている庭師がいたのなら、私に言うのかもしれない。

木は痛みを感じるのか〜side story#1

人に見捨てられ、荒れた地に、のたうちまわるような枝をのばして生きる梅の木。殺伐として見えるものですが、そうした梅がつける実には強い力が宿るのだと、そういう人もいます。そうした梅は人が植えたものかもしれませんが、人の力で育つものではありません。土と微生物、降り注ぐ陽の光や大地と大気の循環のなかから降り注ぐ雨水、多種多様なミネラルや有機物を含んだ水、受粉を手助けする風や虫たち……。そのなかで人がしているのはどれほどのことか。みようによっては自分勝手に、もっととりやすいように、もっと実がなるように、勝手に切ったり、肥料をやったり、薬をまいたりするだけ。見捨てられた梅の木は、そんな人のわがままから自由になり「本来の」自然のチカラを取り戻す?のでしょうか……。そんな簡単なことが起こっているのでは、たぶん、ないのだと、このごろ、考えるようになりました。そんなお話につながることを少しばかり。

昨日、自宅兼カフェの小さな家の、これまた小さな庭に百年以上は生きてきたであろう松の手入れに、庭師さんがやってこられました。かれこれ五年お世話になっています。もともと病気がちな松だったのですが、手入れをしてもらうたびに元気になっていました。しかし昨年あたりから少し調子が悪く心配していたのです。天候もあるでしょうしこの地域で流行っている病気もあるでしょうけれど。他の家では薬や肥料を使ったりされているようですが、ことこの流行病についてはどうやらこれという薬もないようですし、なるべくそうしたものは使わずにすませるにこしたことはありません。

庭の土中環境もたぶん、だんだんよくなっているはずで、五年前はひどかった虫食いもだんだんと少なくなり、今年はようやくバラがたくさんの花を咲かせたりしたものです。松のまわりで気になっていたのは、苔がふえていることで、水がたまりがちなのか、通水性通気性が悪くなっているようでもあります。そうした循環を促すように、浅い穴をいくつかほって炭をいれてもらいました。

さて、松の手入れが終わって、次に大きなシマトネリコの木のことを相談したときのこと。なるほど〜、へえ〜、っということばかりで感心することばかり(いつもですが)ですが、そのやりとりのひとつをあげておきます。

私 「そういえば、木の根が表に出てきているのですが、土をかぶせたほうがよいのでしょうか」
庭師「いや、そのままで。(この環境のなかで)根をどうのばすか……それはこの木が考えることですから」

そして、《もし人が土をかぶせたら、木は間違えるかもしれない》…そういうことを続けておっしゃっいました。

生きようとしているものたちが、何を感じ、考え、動くのか。言葉をもたないもの(もっているものでも)に対して、人がとるべき態度というものを示していように思う。

…つづく。

草村の中にかくろひし神

小さな崖上にたたずむ馬頭観音。これまで何度もこの下を通っていたのに今日はじめて気がついた。あがってみると、人ひとりかろうじて通れるような小道である。下布施、尾白から佐白に至る山道の跡だろうか。この先は藪に埋もれているが、たどっていけば「草村の中にかくろひし神」との出会いがあるかもしれない。ここも、また草に覆われて見えなくなる。そのぶん、むしろ狐や狸らがこの前を通っては頭をよせるだろうか。

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明治初頭、維新の混乱に多くの神々が打ち捨てられていく世にあって、どんな小さな神をもくまなくひろいあげ書き記した一地方官吏、石見の藤井宗雄の長歌をひろった。山崎亮,2010「石見地方の「森神」をめぐって―明治初年「神社書上帳」を手がかりに」より。藤井が書き記したものは大半が刊行されていないのだという。まずは手にとれるものから見てみたいし、出していくべきものの予感がこのうたからも伝わってくるではないか。

 やことなき神の社も草村の中にかくろひあたし國けしき神をも眼火々よく耀うてなに齋き尊きもはた卑きも枝宮も本つ社もけちめなくみたれにけれハ…(『藤園紀行』二)

1月の本とスパイス〜やまたのをろちはワインを飲んだのか?

やまたのをろちはワインを飲んだのか〜マイケル・ポーラン『人間は料理をする・下』etc.(本の話#0016)


第16回の本とスパイス、その背景などについて少々。

昨年の秋から、木次の山野で、阿井の山野で、山葡萄を探している。エビヅル、サンカクヅルを含めたブドウ科で果実が食せるものを。これが、びっくりするくらいに見当たらない。「松江の花図鑑」のサイトをみれば、サンカクヅルエビヅル、は松江市内のいずこかに。対象を県内にひろげてみても、全域で見られるようなのに。
なぜだろう。どうしてだろう。探し方も見つけ方も悪いのだろうと思っていた。だがしかし、ブドウ科には詳しい、というより専門家たる葡萄園のS氏も「探しているけどなぜかない」と。
頭の中に「山ブドウ」の文字が浮かんでは消える日々が続き、雪の季節にもなり、また来年の宿題かと思っていた頃、東京で髙山氏に会う機会を得たので、表題の件を聞いてみたのだ。
いや、山葡萄探しから飛躍しすぎた。
その手前、そもそもなぜ山葡萄かということについて述べなければつながらないのだが、長くなる。ここでは自分への備忘も含めふたつをあげておく。
◉2017年の採集草木調査の一断片としてこんなことを言っていた
奥出雲山村塾のfacebookページ投稿
◉山葡萄をはじめ手をのばせば食べられるものが山にはたくさんあったというHさんの思い出。これについては、髙山宗東「八鹽折酒」考を。
続きはまた。
古事記を読むとはどういうことか。なかでもやまたのをろちをどう読むか。そしてマイケル・ポーランが「料理」をどうとらえているか。をろちとの関係は。と続く。