■1月6日、小寒の日の午後、杵築の大社に詣でる。穏やかな空気が心地よかった。無の空間、神の空間が、かすかではあれ、たしかにそこにあるように思えた。
杵築の森を確かめる。何年か前に歴博の展示でみた佐草家の文書だったかに杵築森とあった文字の記憶だけが蘇る。ウラジロガシのどんぐりをひろい、もうひとつ、出雲森をちらりと確かめながら、モリとフロとツカをめぐる想念※を、清少納言・枕草子の「森は〜」にからめてみる。はたまた、北島國造館の遷宮なった稲荷社の脇にあった小さな稲荷の置物群についていくつか思い当たることを徒然に想う……。荒神、天穂日、稲荷の御三社は、「モリ」からいでなったものと考えてみよう。
■そして、この日、森から10分ほども歩いた神門通りの舎で、子安宣邦先生の再婚を知る。
床の間には、舞楽陵王の画に、君が代は千き代に八千代に、を冠した掛軸が掛かっていた。
驚いて、著名な方ですよ、としかこたえられず、また知る人ぞ知るという言い方も不自然だ。
妻から、Facebookにものっているよと、お相手のことなど教えてもらう。wikiには(まだ)記載はないとのこと。
■facebookを開いて、さらに驚く。
https://bit.ly/3Gm163f
《宣長の国学論から「絶対的保守主義としての天皇制」を導き出しながら、これを近代国体論のなかでどう位置づけて考えるか、あれを読み、これを読みしながら迷い続けてきたが、やっと解く道筋を見出したようだ。》
昨年11月の投稿である。89歳にして、である。いや、再婚ではなく。
来る1月28日には「昭和思想史研究会・思想史講座「絶対的 保守主義としての天皇制」第4回が、肥後細川庭園内の松聲閣で開講されるという。
■子安宣邦の名を書棚の奥方から引き出してみる。岩波新書の『本居宣長』(現在、は増補版として岩波教養文庫)、平田篤胤の校注、岩波講座東洋思想第15巻の子安、鎌田、野崎による「国学」の部、ほか単著でも宣長問題など数冊があったように思う。岩波講座において子安は、小林秀雄『本居宣長』を、《その全体が宣長という劇の再演の感慨を果てしなく言葉にしてみせたというおもむきをもつ》と賛している。その調子がいささか意外であった。
■小林秀雄の『本居宣長』。ちょうど一年前であろうか、松江の冬營舎でじつに美しい装丁の単行版をみて、あぁ、文庫を通読しおわったらと思い、手触りも覚えているが、まだあるだろうか。月に幾度か、せめて半日ずつでも静かに向き合いたい。
■神社。出雲大社であれ、近隣にある小さな村社であれ、路傍の小さな祠であれ、いまだコンビニの数を上回って私たちのまわりに存在しつづけるトポス。そこに私たちが感じ取る清澄とともにある畏怖=aweの心的構造について、私の師である野崎守秀は、「時間が消えうるような場」をつねに生成していることを挙げている。時間消失装置が点在しているのが日本という国土なのだとも換言できよう。
■野崎先生は、古層の信仰において「年越し」こそが最大の恐怖であったことをさらりと確信をもって語られた。35年前の自分にはさっぱりわからないことであり、バリ島・ウブドのカフェで手帳に図をもって示されたことだけが記憶に沈殿したままだった。ここ数年、頓原の来訪神・トロヘイの行事をたずねて以来、繰り返し蘇り、像をぼんやりと結ぶようになった。「今」を支えるものとして「無」がある。無の場所に神(という言葉)がなる。
■さて、しかし、古層から現代にまで届く射程を可能にしてたのは宣長である。先生は「宣長の息苦しさ」を繰り返し語り、宣長を解体しようとされていた。とてもそこには近寄れないと肌で感じたものだ。その仕事の大きさと迂遠さをある種の愚かさとして見てもいた。決して口にはせずとも、伝わっていたかもしれない。恥じ入るばかりである。
■宣長を解体する。その困難をもっとも周到に述してきたのが子安宣邦という人であったと思う。アカデミックの話ではない。それは「日本を解体する」と同義である。「今の日本は……」と語るすべての人の中に、宣長がいるのだ。これほどの呪縛があろうか。息苦しくもなろう。ことは想念の世界だけにとどまらない。コメ、日本の主食であるコメ。地位は低下しているとはいえ、ごはんとおかずという食の構造は変わりようがなさそうに思える。コシヒカリの生産が2割以下となり、茶碗が食卓から姿を消すかその形態・用向きが変わるような事態が「宣長を解体する」ということだ。
■深いところ、奥深いところから、日本を規定しているものの礎は宣長の仕事がなければなかったろう。日本語がいまのようでなかったであろう。かなも漢字も消えて、ローマ字表記になっていたかもしれない。もちろん宣長ひとりの仕事ではない。江戸時代から明治を経て大正・昭和・平成を生きた人々が営々としてつくりあげてきたものだ。
■だが、その間、多くの人が嘆いてきたように、これは「もたない」のかもしれない。日本なるものが「もたない」と最初に喝破したのは、荻生徂徠であった。「政談」を一読されれば、これは令和の日本のことかと目を疑われると思う。日本は終わっているが、延命はできるとものした政談。享保10年ごろのものである。コメを主食とする食の体系ができあがる中(速水融・鬼頭宏)、気候変動もともなって飢饉が頻発しはじめる世。爾来300年。
■杵築に詣でたときに、この祈りの形は、あと百年もたないのではないかと、そう思ったのだった。浅学非才の身を恥じながらも、解体に要するノコ一本の目立てを終えることが、残された齢をかぞえるに断念せざるを得ないのだろうが、子安宣邦89歳の仕事をみるに、途中であれなんであれ、できるところまで行こうかと、そうした希望を得た日であった。めでたきかな。
※モリが森として表記されることは比較的新しい時代のことで、杜、社、あるいは同じ場をツカと呼んだが、フロとも。雲陽誌の仁多郡に森をフロと記するところがある。
※少なくとも、大和言葉での自然の呼称は鳥瞰的視座をもたない。現代の私たちが森をイメージするときの、多様な林分で覆われた一定領域を示すことはまずなく、せいぜい境界を示す点である。宣長の古事記傅の注に、山海は、うみやまと読むのだとする応神天皇のくだりがある。山海は漢語の格であり、さんかいとは読むが大和言葉ではうみやまとなる。やまうみではない。
山野はぬやま(のやま)。より近いもの、ふれることができるものが先にくる。移動をともなう、あるいは移動でしか関知できない空間の認識形態なのだ。