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雨が滴り落ちるその場所について〜シビル・ウェッタシンハ『かさどろぼう』はじめ.(本の話#0019)

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主 催:カフェ・オリゼ&樟舎
日 時:2019年7月5日(金)
開 場…18:30〜
トーク…19:00〜20:30(20:30〜22:00 食事とカフェの時間。21時以降の退場はご自由に)
場 所:カフェオリゼ(島根県 雲南市木次町里方331-1)
参加費:2,500円(スリランカカリー、ドリンクセット含)
定 員:12名
申 込:「本とスパイス」参加希望として、森と畑と牛とのコンタクトフォームより、お名前と連絡先をお知らせください。返信のメールをもって受付終了とさせていただきます。

雨の安曇野ちひろ美術館で一冊の絵本に出会いました。スリランカの作家、シビル・ウェッタシンハの『かさどろぼう』です。この日は朝からの雨でしたが、うらめしいはずの梅雨空から落ちる雨の雫が、宝石のように輝いているような、もう、なんともいえない時間と空間のなかで、『かさどろぼう』のなかの一枚の原画が展示されていました。

絵をみたときには、主人公が傘をどろぼうするお話なのかと思っていましたが、本をよむと、そうではなく、傘を盗まれるお話なのです。そして、このお話はものを「もつ」ことの意味をとてもデリケートな流儀で私たちに問いかけてきます。一歩踏み込んでいうならば、「もつ」ことと「つかう」ことの間を行き来するお話でもあります。傘を盗まれるおじさんは、傘のある町と傘のない村との間を何度も往復します。傘は村に帰るたびになくなる=盗まれるのですが、村には傘がなくても雨をしのぐ大きな葉っぱも家の軒先もあって、おじさんはがっかりはしても困りません。なんのための傘なのでしょう。おじさんはなぜ傘がほしかったのでしょう。そんな疑問をよそに物語はすすみ、村では傘が大流行することになります。みんなが傘を買ってよろこんでさしたので村は「はながさいたようになった」といいますが、そこに雨は降っていません。なぜ? なぜ?……この違和感をとくために、少々寄り道をしてみましょう。

日本には軒先というものがあります。
急な雨に軒先を借りる、その軒先は軒端ともよばれ、家の中でもなければ外でもない中間の場でもあって、「精霊」と応対する場でもありました。「笹の葉さ〜らさら〜、軒端にゆれる〜」。そう七夕のうたでおなじみ。また、能の「雨月」では西行法師が向こう側の世界とつながる契機として、軒端のやぶれをめぐるうたがあります。
月は漏れ雨はたまれととにかくに賤が軒端を葺きぞ煩ふ
……いまほどに雨樋が普及する以前、雨は軒先から下に滴り落ちるものでした。そしてまた月の光がこぼれるのをみる場所として(月は強い力をもっていると信じられていたので、直接みるものではなく、水に写して、ススキ越しに、あるいは綻びた軒先越しにみるものでした)。そうした場所は、だれもが借りる(つかう)ことのできる場所でもあったということが、『かさどろぼう』を読み解く鍵となりそうです。
このつづきは、7月5日の夜に。(案内人森と畑と牛と編集人・面代真樹)

主な図書等
†. シビル・ウェッタシンハ作&絵、いのくまようこ訳『かさどろぼう』(徳間書店)
†. 『雨と生きる住まい―環境を調節する日本の知恵』(LIXIL出版)
†. 下山眞司〈縁側考―「謂れ」について考える〉〜建築をめぐる話…つくることの原点を考える(web)