野老と道々のもの

P1310622 おそらく鬼野老(オニドコロ)だと思う。一昨日やっと見つけた。探しているときには見つからず、忘れた頃に、こんなところにあったのかと驚くのはいつものこと。そして、7月下旬の今頃が目立つということでもあろう。花をつけるのもこれからだ。
トコロを食べる会として、蔓延って困っているというところからは根こそぎ持ち去ることを申し出るべく、会の趣意を記してみようと思う。
鬼野老と書いてオニドコロ。令和2年現在、ウェブで散見するに、数年前の記事では青森、山形では、道の駅でも売られているとか。山陰ではまず見ないし、聞くこともない。出雲地方、石見地方での呼称については不明。出雲国産物帳を紐解いてもそれらしい記載はない。
トコロと名のつくものはいくつかある。
・アマドコロ(甘野老)
・ヤマアマドコロ(山甘野老)
・ウチワドコロ(団扇野老)
・カエデドコロ(楓野老)
・キクバドコロ(菊葉野老)
・ヒメドコロ(姫野老)
・タチドコロ(立野老)
が、通常、トコロといえば、オニドコロ(鬼野老)、すなわちヤマノイモ科のDioscorea tokoro Makinoをさす。いつのころからなのか。仮に江戸時代中期以降と見立て、その嚆矢を元禄時代とみてみよう。『本朝食艦』を著した人見必大とて、トコロという呼称の由来については不詳としている。漢名は山萆薢、生薬名は「萆薢(ヒカイ)」というのは誤用のようだが、よくあることで、気をつけたい。また、必大は野老の栽培も多いということにふれ、栽培したものの毒性についてふれている。言及こそないものの、山野の自生したものが用いやすいということか。さらに、栽培は食用ではなく、生薬にするためのものであったであろうと。さらに進めて、元禄の頃よりトコロを日常に食することが減っていったのだろうと、今は見ておこう。元禄の『本朝食艦』から五十年ほど時代をくだって弘化の『重訂本草綱目啓蒙』になると「味ニガク食フベカラズ」と記され、干して春盤の具(正月の供物)とすることや奥州、阿州では上巳の節句に用いるのだ等、文字の知識と儀礼に残るだけのものとなっていく。
僅かな文を手がかりに、時代を室町、鎌倉、平安にまで遡れば、いま少し違う風景も見えてくるようで、そうしたことからの臆見に過ぎないが、トコロを食べてみようという向きにはそれでも有用なのだ。
蛇足ながらの付言をふたつ。
日常の食とはいっても、嗜好食である(あった)ことは、野本寛一が『栃と餅』2005,岩波書店で記していることからも推し量れる。野本氏が口にしたその食味とあわせて平成15年3月2日に新潟県岩船郡山北町山熊田での出来事をその書からひいておこう。

《こうして仲間が集って手仕事をする時や、家族がイロリやストーブの回りに集まって団欒する時、煮あげて笊に盛ってあるトコロの皮を小刀や果物ナイフでむいて楽しみながら食べるのだという。ーーキヨ子さん(大正12年生まれ)は包丁で手際よく皮をむき、食べてみろと勧めてくれた。
色は薄い飴色に鬱金色を混ぜたような色である。口もとへ運んだ瞬間、微かな芳香が鼻孔を刺激した。口に入れて噛む。ねっちりとした歯応えがあってホロ苦い。苦いけれども口が涼しい。歯応え、舌ざわりは山芋を輪切りにして煮たものに近いがそれよりも弾力性がある。爽やかな香気がある。苦いが抵抗感は湧いてこない。》

山北町(村上市)は山形県鶴岡市と接し、むしろ山形であると、町の方から聞いたことがある。山北町の焼畑でつくられる赤カブは鶴岡市温海の温海カブと名称こそ違え、ものは同じであるようだ。そうしたこともこの話の糸のひとつ。食べてみるといえば、島根県内で毎年、口にしているところもある。美保神社の青柴垣神事。供物の中でも野老は重要なもので、當屋が供物であるトコロいもを海中で洗う「野老洗い」は欠かせない儀礼となっている。今現在どう調理されているか、野老はどこから取ってくるのか等、確かめるべきことも多い。山形地方から贖っているということを論文で見た記憶があるがすぐに取り出せないので勘違いかもしれない。この糸は、山陰は元来白カブを地カブとする地域なのだが、津田蕪をはじめ、米子蕪、飯島蕪と赤カブが沿岸地域に存在する(してきた)。その北の縁と、里芋・生姜・茗荷とつながる南の縁をつなげることに、意味はある。

もうひとつは、舞狂言の「野老」である。
幽霊となってさまよう鬼野老の霊を僧が供養するのだが、野老の精が延々とその身の上を語るところが主話となる。
能楽研究所が蔵しウェブ公開されている「天正狂言本」からその冒頭をひく。画像に朱で示したところ。

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《そもそも山深きところを
鋤鍬にて掘り起こされて、
三途の川にて振り濯がれて、
地獄の釜に投げ入れられて、
くらくらと煮ゆらかしていませるところを
慈悲深き釈尊(杓子) に救い(掬い)あげられ……》

続きも笑いをこらえるところなのだろうが、目をこらすべきは「山深きところ」。野老は山深いところだけにあるわけではない。これは舞狂言がそうであるように、この夢幻のなかで野老を食していたのも、それを供養しているのも、当時のいわゆる農民や僧ではなく網野善彦いうところの「道々のもの」であることを示している。漂泊するもの、だれにもどこにも属することなく、諸芸職工を懐に道の上に生を全うし歴史から消えていったもの。そうしたものの霊こそが慰められている。
野老は道々のものが、楽味とし、滋養としたのだろう。合歓木の花咲く夏の日、鮮やかに静かに葉を茂らせるその姿に夢想した。
さて、どこまでか、たどれるところまでそれを追い、食べてみよう、というのが、トコロを食べる会の趣意である。

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